活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

本気で変わる気があるのか

今日、NHKスペシャルで「人材不足」について報道されていました。
いろんな問題があるものの、原因ははっきりしています。
それは「日本の企業体質」です。
今まで、男性共同体を形成して女性を排除した上、
「男は外、女は家」という文化を醸成してきました。
それを今更、女性も輝ける社会に。というのは虫が良すぎるのでは。


確かに、女性が働かないと立ちゆかない社会になっているので、
女性の社会進出は課題です。
しかし、企業文化が変わらない限り、この構造は変わりません。
もちろん、変わっている企業もあります。
ただ、変わっていない企業が大半でしょう。
特に問題となるのは経営層です。
彼らの意識が変わらないと企業が変わらない。
企業が変わらないと社会が変わらない。


マクロな視点で見れば、この一点に集約されます。
しかし、ミクロな視点で見ると問題は山積し、
どこから手をつけるべきか分からない状態。


これをごっちゃにしているから、世の中の問題は解決しません。
自浄作用が期待できないのであれば、
国が介入するのもやむなしとも思います。
そこはまず、経営層が変わってもらいたいものです。

時間泥棒を追いかけて

転職をして10日目。
早くも前職の違いが鮮明になる。
前職はとにかく労働時間が長ければ長いほどよい、典型的な日本型企業だった。
しかし、現職はいかに生産性・効率性を上げるかに腐心している。


本書に書いているように、スケジュールの管理、
ペーパーレス化、データ・ナレッジの共有化が行われている。
特に、自分が何をするのかtoDoリストの管理や何をしたのかの明確化は
仕事をする上で非常に効率化できる。
前職の苦しみは何だったのか、と思えるほど。


スケジュールの一括管理することで、スケジュール管理から解放される。
私自身、今までスケジュールを頭の中で覚えていたので、
タスクを忘れたり、処理しきれなかったことが多かった。
長時間労働になればなるほど、タスク管理ができなくなった。


しかし、本書の方法を使えば、確かにタスク管理をしなくても良い。
本書に挙げているGoogleツールが勝手にやってくれるからだ。


これをプライベートにも応用すれば、自分のフリーな時間を作ることができる。
仕事はすでに会社単位で行われているので、
プライベートで実践してみたい。

君は、強さの意味を知っているか

ようやくHDプレイヤーに溜まっていた録画をほとんど見終わった。
一番古かったのが2月で約2ヶ月間見られていなかったことに驚き。
まあ、死ぬほど忙しかったので無理もなし、か。
そんな生活ともおさらばですが(笑)。


ようやく見終わった『キルラキル』。
賛否両論はあるものの、個人的には面白かった。
中身がないと言われれば、それまでだが、その中身がないことが作品の面白さの一つではないか。
ただ、ここで主張したいのは満艦飾マコの存在だ。
一見すると単なる脇役だが(かなりインパクトの強い脇役だが)、実は彼女の存在こそ作品において重要なファクターといえる。


確かにシリアスストーリーに一切絡んでこない。
だが、ギャグパートで存在感を強めながら、彼女の言動が主人公の纏流子を変えていく。
それどころか、主役級の四天王にさえ影響を与えている。
しかし、彼女自身は何の力もない。
極制服を着た瞬間は強くなったが、それも2回だけ。
ほとんどは弱い存在のままだ。


それでも本作では彼女の強さが描かれている。
空気を読めない天然さではなく、我を通すまっすぐさだ。
猪突猛進に自分の思いをぶつける姿が、流子を変えていく。


そう、本作は満艦飾マコを抜きには語れないのだ。
守られるヒロインになりかえない立ち位置にいながら、けっして守られる存在ではない。
むしろ、時として流子をヒロインにしてしまうパワーさえ持っている。


今までこのような作品はなかったのではないか。
寡聞にして例を知らないが、多くの物語は主人公(ないしは敵役)が強く、脇役の存在なしでも成立する物語だ。
だが、本作は満艦飾マコがいなければ成立しない物語だ。
しかし、満艦飾は「腕力」を持っているわけではない。
ステゴロ上等の世界で、唯一「腕力」ではない部分で渡り合っていた。
鬼龍院皐月のいう「意志の強さ」を図らずも体現している存在といえる。
彼女に触れ続けていたことで流子の心も強くなっていく。
流子が道を外れそうになるたびに、マコが止めに入っている。


そういう存在を描いた作品という点で、本作は評価に値する。
主人公とは違う階層で対等になれる存在を描いたことは、今後の作品において重要な転換点だ。
あれだけ荒唐無稽だからできるのかは分からないが、今期の(深夜)アニメではもっとも評価が高い作品としたい。

この差は何を生み出すのか

http://sp.mainichi.jp/select/news/20140111k0000m040015000c.html
公立と私立との学習費の違いが2〜3倍になり、私立中の学習費は過去最高を記録した。
最終的に学習費は、小学校から高校まで公立なら500万、私立なら1677万と1000万以上の違いになった。


これを見て、多くの保護者はどう感じるだろうか。
「やはり、公立に進ませるべき」と考えるだろうか。
だが、公立出身と私立出身では最終学歴に大きな差が出る。東大の半分以上が私立出身者で占められている現状だ。当然、難関大・有名大も同様に状況にある。
この学歴の差が、就職企業の規模の差になり、40代で年収1000万になるか500〜600万程度になるか分かれるのではないだろうか。


もちろん、私立に行かせたら難関大学に行ける、公立では行けないという二元論ではない。
ただ、私立と公立を比べたときに、大きな差が出るのは間違いない。
では、その差は何によって生み出されるのか。


私は学力はパソコンになぞらえて、ハードウェアとソフトウェアで決まると考えている。
ハードウェアとはすなわち脳、ソフトウェアはOSとデータに分かれ、OSとは「考える力(地頭や論理力と呼ばれるもの)」、データは知識である。
未成年のハードウェア=脳に大きな違いはない。違いが生まれるのはソフトウェアの部分だ。
少なくとも、私立(小学校・中学校)に行かせるときは受験が必要になる。特に私立中高一貫校に向けた中学受験は苛烈で知られる。
その時期にOSとデータを徹底的に鍛えられ、その後も中高で継続的に鍛えられれば、県下トップ校でかつ上位生でもない限り、太刀打ちはできないだろう。


いわゆる普通の高校生(偏差値50〜60の高校)は毎日1時間勉強したら勉強した方と認識するのに対し、難関中高一貫校は3時間勉強していても全然勉強していないと認識している(麻布高校のような特殊な学校は除くが)。この時点で、すでに負けている。
すなわちOSでもデータでも圧倒的に私立が優位に立っている。
これは社会に出ても同様だ。むしろ、社会に出たあとの方が顕著と言える。
東大・難関大でも使えない人材がいる、という話だが、それは一部や附属出身者ではないか。比率で言えば、やはり難関大学に優秀な人材がいる。


それを踏まえると、この1000万の違いをどう考えるのか。
安いと見るか、高いと見るか。


もちろん、公立出身者にも優秀な人材はいる。
むしろ、問題は家庭の教育方針と環境だと考えている。なぜならば、私立に子どもを行かせる保護者のほとんどは、学力が年収と比例関係にあることを理解しているからだ。だから、学力を身につけさせるために私立へ行かせる。


今は単純な学習費の違いの問題だが、やがて越えられない年収の問題になり、格差社会の問題に繋がるのではないか。
学力が年収の違いを生み、階層が固定化されてしまう。下流層は学力を得るための費用をかけることができないのに、上流層は費用をかけることができる。
それが何世代もの間、拡大再生産された先は……。


改めて問いたい。この1000万の差を。

良い上司、悪い上司、普通の上司

普通の上司とは、面白い仕事を部下に与え、つまらない仕事を自分がする。あるいは自分も部下もつまらない仕事をする。
良い(できる)上司とは、面白い仕事を部下に与え、自ら面白い仕事を作る。
悪い上司とは、自分だけは面白い仕事をし、部下につまらない仕事ばかり与える。


名ばかり管理職になって思うことは、上司の仕事は部下をどう使うか(動かすか)に尽きます。
使うと言っても、ブラックみたいにこき使う・消耗させるのではなく、どう気持ちよく仕事をさせるか、です。
すなわち、面白い仕事をあてがって、どう仕事のモチベーションと能率を上げさせるかということ。


自分の考え方の基本として、部下は仕事が面白ければ勝手に仕事をする、と考えています。
となると、考えられることは面白い仕事を差配するか、今ある仕事を面白くさせるかの2つです。
後者についてはかなり難しいので、前者をメインに、どう後者へ持っていくか、が課題になります。
それができれば、部下は「ひーーはーーー、仕事楽しいいいいwwwwww」ってなるわけです(笑)。


そうなると課題なのは、どんな仕事が部下にとって楽しいか。
渉外(営業)が楽しい部下もいれば、データ整理が楽しい部下もいます。それぞれの個性(特性)に合わせて、仕事を差配することが上司の仕事といえます。
上司は部下の個性を考えなければいけません。
得意伸張の仕事配置こそが仕事を捗らせるコツではないでしょうか。


ただ、それが得意(好き)な上司はよいですが、苦手な上司は厳しいですよね。
自分自身も仕事は楽しくしたい。そのためには楽しい仕事を作り出す力が必要です。
多分、今の「上司」と呼ばれる人は「仕事を作り出す能力」をどう養うか、が上司として続けていく条件ではないでしょうか。


と、名ばかり管理職は思うわけです。

新年だし

久しぶりに、ブログでも書いてみよう!


って、思ったのは何度目だろう(笑)。


最近、よく思うことはアウトプットがうまくいかないこと。
インプットするだけになるか、ルーチンになってしまうかのどちらか。
アウトプットして、新しいことを身につけている感覚がない。


このまま生活を続けていると、自分の成長が止まってしまう。
今年は自分のあり方を振り返るよい機会かな、と新年、改めて思う今日この頃。

何事にも型はある

そのまんま、文章とは型である、というのが本書の主張です。
かの小論文の神様も同じことを言っていました。
それが小説にも及んでいる点で慧眼と言えるものの、独自の視点かと言えば、そうでもない。

一読の価値はある、といったところですか。


院政とは何だったか (PHP新書)

院政とは何だったか (PHP新書)

確かに「中世」=「武士の世界」というのが世間の常識でした。
しかし今、中世は鎌倉幕府成立に始まるのではなく、荘園制の確立によって始まるとしている教科書は多い。
では、なぜ荘園制の確立が中世と言えるか、が本書の論題。


その一つの出発点として中世史の「権門体制」から出発しています。
権門とは何か、権門の一つである院宮家にとって荘園の役割とは何か。
そこから中世の王権を考えています。


権門体制の是非は論じず、一考の余地あり、としています。
そのうえで、従来の権門の複雑性を受け入れるのではなく、荘園から見た権門(特に院宮家)によって中世はスマートに考えることができる。


なるほど、新しい中世論としては面白い論考でした。