活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

まな板の上の鯉は、いつだってさばかれるのを待っている


演劇や小説における経験主義をどうかしら、と考えています。
ここでいう経験主義とは、その人が経験したことを表現にする、ないしはほぼ素材のまま表現する、ことを指しています。


つまり、極論を言えば、殺人者しか殺人者のことは書けず、娼婦の心情は娼婦にしか表現できない、ということです。
それっておかしいとおもいませんか。
しかし、どうにも表現の世界で、それがまかり通っている気がしてならないのです。
上記のように極端なものでなくても、恋人を演じるときに、自分の恋愛体験そのままを舞台に載せたり、性同一性障害の人間が性同一性障害の人間を書いたりと。探せば枚挙にいとまがありません。


それがすべて悪いとは言いません。事実、私小説とはそういうジャンルですから。
ただ、自分の経験をそのまま表に出すのはいかがなものか、と思っています。
たとえるなら、刺身みたいなものです。たしかに板前が切った刺身の方が美味いことは事実です。しかし、ファミレスのキッチン担当が切っても、フレンチのシェフが切っても、たいした差はありません。
むしろ、ある魚を使ってどう料理するかが、その料理人の腕の見せ所ではないでしょうか。
その経験を使って、その人なりの表現をどう表すのか。それこそが表現者として求められることではないでしょうか。


なぜなら、仮に同じ経験をした二人の作家がいて、両者がその経験に基づいて小説を書いた場合、刺身の場合は同じようなものが出来上がるはずです。それではルポか何かです。
そうではなく、同じ経験なのに描く人によってまったく異なることが表現であるはずです。


私は経験や知識こそが、その人間をつくり出すと考えています。ですので、けっして経験論を否定しているわけではありません。ただ、経験という素材を素材のままで、「表現」と称しているのが問題だ、と言っているのです。
素材をどう料理するのか、そこに表現者としての力量を見たいものです。