活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

見えるものと見えないものの狭間で


*ネタバレが含まれています。見る場合にはご注意を。


ブラインドネス
場末の劇場のような、あるいは昔ながらの劇場と言ったほうがいいでしょうか。そんな上野東急で観てきました。
突然、盲目になるという感染性の病気が流行した世界。彼らを、アメリカ政府は隔離という名の収容所に押し込める。その収容所で、ただ一人目が見えるヒロインの献身的な奮闘記、というのが一番分かりやすいあらすじでしょう。


感想としては、全体として巧いつくりでした。
盲目という仕掛けに、時折効果的に見せる画面のブラインド(目隠し)。白くぼかして見えない状態から明瞭になっていくカメラワークは秀逸でした。
全体的に効果を巧く使った映画と言えます。例えば、収容所で「王」になった男によって支配され、食料と引き替えに女を差し出すシーンでは、その前に手にいれたハサミの使い方が特徴的でした。いつか使おうと、テレビの前にかけられたハサミは刃がしっかりと閉じていました。しかし、男たちの元へ娼婦としていくシーンでは少しだけハサミの刃が開いています。
収容所を出て、ヒロインの家へ帰ろうとするシーンの中で、ピアノ教室から音楽が聞こえてきます。それは一瞬なのですが、非常に印象深いシーンになっていました。
このように、本作では「効果」を狙ったつくりが非常に素晴らしかったです。


ただ、ご都合主義の部分も否めませんでした。
特に、「王」になった男を殺したあと、戦争になりかけた時、ヒロインの夫である目医者の受付が、黙って「王」の病棟へ放火するシーンはよく分かりません。確かに、ヒロインを助けるため、という感じもします。しかし、詳細な描写がなかったので正確なことは言えませんが、彼女はその場にとどまって焼身自殺をしているようです。実際、その後には登場しませんし。そこまでする理由が、それまでに出ていないんですよね。


もう一つは、収容所では全員を助けようと奮闘する彼女ですが、「王」を殺し収容所から出たあとは、はぐれた仲間を助けようとはしないし、外にいる人々に冷たくします。人を殺したことで、彼女の心境が変化を起こした、ともとれますが、あまりにも唐突すぎる気もします。
確かに、話の流れからはそれが当然なのですが。


趣旨としては、すべての人が盲目の中、彼女だけが悲惨な現実を直視しているという現実。彼女だけが本当の現実を見ている、という暗喩なのでしょう。その中で必至に藻掻き、現実に立ち向かうために人殺しもした。だからこそ、ラストシーンの「今度は私の番だ」といのは、素直な解釈で言えば「今度は私が幸せになる番だ」と言えるでしょう。
しかし、ここでは少し穿った見方をします。盲目の世界でただ独り見える彼女は、他の人間より断然優位に立っています。だからこそ、彼女はあそこまで献身的になれたのでしょう。しかし、最初の患者が回復したことで、彼女の特権は剥奪されます。それまで彼女は見えるからこそ他者に求められていたのです。だが、これからは違う。「私の番だ」というのは、私が盲目になる番だ、とはとれないでしょうか。盲目になることで、求められる側から求める側になる。そうすることで、築き上げたコミュニティの存在価値を持たせたいのではないか。


収容所を出た外の世界では、小さな集団(コミュニティー)を築いて生活しています。
作品の中では言及されていませんでしたが、実はその集団は見える人を中心に構築されていたように思われます。外の世界のワンシーンの中で、こどもの集団がカートを引いた夫婦から略奪するシーンがありましたが、その先頭を歩いていた少女は見えているかのような動きをしていました。
彼らは見えない世界だからこそ価値を持っていました。しかし、見える世界では彼らは「ただの人」です。
そんな世界で彼らは満足できるでしょうか。答えは否、です。だからこそ、見えていた彼らは今度は見えない側になる。そのような倒錯した思いが見え隠れします。


そう考えると、ハッピーエンドのようで、実は深く考えさせられる場面ではなかったのでしょうか。


という感想ですが、実は一番の感想は「長い」でした。
2時間ぴったりでしたが、1時間半くらいでも良かったと思います。