活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

没個性の海に「私」をみる

「貴方の代わりはいない」


という言葉は仕事においてはまったく意味をなさない。
高度に組織化・システム化された仕事は習熟練度の違いがあるものの、特定の個人でなければならない理由はない。
むしろ、特定の個人でなければできない仕事はあってはならないと考える。


なぜならば、近代以降の仕事は分業化によるベルトコンベア工程だからだ。
仕事を限定させ、それを流れ作業にすることで極限まで効率を上げることによって大量生産を可能にした。


これは工場だけでなくサービス業も同様だ。
業務をマニュアル化させ、限りなく個人による仕事差を均一化させることに腐心してきた。
コンビニやマックのマニュアルがまさにそうだろう。
しかし、それは悪いことではない。
それまで個人によるばらつきがあったものを少なくとも一定のラインで保証している。
さらに、どこへ行っても同じサービスが受けられるメリットがある。


そのシステムを最大化したのがフランチャイズ・システムだ。
均一のシステムによって地方であっても都会と同様のサービスを受けられる。
これほど素晴らしいシステムはないだろう。
ゆえに、フランチャイズによってコンビニやファミレスは瞬く間に日本全国に増殖した。


だが、増殖しすぎた。
数百メートル先に同じコンビニが乱立し、システムを増殖させ、どこのコンビニでも同じサービスが受けられ、差別化できなくなってしまった。(小さな差異は存在するが)
そうなると、どこで差別化するか。
結局、個人に依存した能力に頼るしかない。


近代の仕事は没個性とすることで最大効率を上げたが、飽和状態の現代は没個性による組織化・システム化以外のところで勝負せざるを得ない。


では、中世のような職人が隆盛するのだろうか。
答えは否だ。
大量生産された商品の品質は、すでに素人目には職人の仕事と大差ない(値段に見合わない)。
もちろん、職人の作り出した商品は素晴らしい。
だが、その素晴らしさは細部に宿っており、素人が感動できるレベルではない。素人では分からないと言った方が正確だろう。


近代の没個性を受けてなお、個性を出す仕事こそが現代の仕事と言える。
しかし、どんな仕事なのだろう。
答えの一つをコンシェルジュに見る。
彼らは全体では組織の中で動いているが、日常の仕事そのものは個人の能力によるものだ。
あるいはディズニーランドのキャスト教育に見る。
彼らは守るべきルールがありながら、その運用は個人の裁量に任されている。どう判断するかは個人によるのだ。


もし、日本の企業が生き残ろうと考えるならば、以上のことを考える必要があるだろう。