活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

そこに正義はない

本来、人間は対等である。
もちろん、所有や地位による格差は存在するが、人間の権利という面においては誰もが対等だ。
人間というデフォルトが、という意味である。
友達を作るということは相手から見ても自分と友達になるということであり、恋人を選ぶことは恋人から選ばれるということだ。


しかし、その人間に地位や金という付加物がつくと、とたんに格差が発生する。
特に金という存在は大きい。
これがあれば、子どもであっても大人と対等以上の存在になれる。
関係性を無理矢理作ることができる。


一番分かりやすいのは買い物だろう。
子どもが買い物をしても、店員は対等の扱いをする。
これ自体に問題はないが、問題はこれを極限してしまうことだ。
金さえあれば、つねに強者の側に立てるという幻想だ。


現在、日本を覆っている個人主義は、まさにここに立脚しているのではないだろうか。
共同体が破棄され、すべての権利と責任は個人へと帰している。
そうすると、なんらかの権力を持たなければならない。
そうしなければ、常に「自己責任」を問われるからだ。
社会的地位を手に入れられればよいが、そうできる人は限られている。


だから、人は「金」という権力を得るために、マネーゲームに興じる。
アメリカ式資本主義の本質と言える。
そのために、マイケル・サンデル氏のようなコミュニタリアリズムが興るのだろう。
共同体の再評価と道徳と正義の論理が論じられるわけである。
共同体に存在する道徳と正義という規律が、人々をより幸福へと導くというわけだ。


金とは、人類が生み出したもっとも効率的なシステムだ。
多くの価値と交換が可能な存在なので、抽象度の高い社会では必要不可欠な存在と言える。
しかし、万能ではないし、権力であるべきではない。経済システムであるべきだ。
そこをはき違えている人間の多いこと。
金(貨幣)とは異なる価値観を持つ人間の間で成り立つ調整機能でもある。あるいは合意だ。
だからこそ、人は金を通して他人と経済活動を円滑に行うことができる。
それ以上でも以下でもない。


社会が認める道徳や正義の存在が今こそ必要なのかも知れない。