活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

狂気の沙汰

狂っているのは私か世界か。


その時点でどちらにせよ、狂っていることには変わりない。


「狂い」の構造 (扶桑社新書)

「狂い」の構造 (扶桑社新書)


最近、というか以前より人間はどうして「狂気」に至るのかに興味があります。
人はいかにして狂うのか。
「狂気」というものが人間の本質の一面を見せている気がするのです。


本書は軽く狂っている人から、落ちるところまで落ちた人間までを取り扱い、人が「狂気」に落ちるのはどういうことか、を結構ざっくりと語っています。
そこで面白かったのは、人が狂う端緒は「面倒くさい」にある、ということです。
風邪は万病の元、といいますが、面倒くさいは狂気の元、といった風です。
面倒くさがることから、人間は常軌を逸していくのだと、平山・春日両名は語っています。


確かに、面倒くさいをこじらせると、社会性や人間性を失っていきます。
現代社会で生きていくことができなくなるわけです。
で、自分の論理の中でしか生きられない。
当然、自分の論理と社会の論理は相容れない。だから、人は「狂った」ように思われる。
それが行き着く先は「狂気」なのでしょう。


でも、それってほとんどの人がそうなんじゃないでしょうか。
結局、自分の論理で生きていて、たまたま社会から排除されないから生きているだけです。
一歩間違えれば、というか、すでに道を踏み外している人間も多いのではないでしょうか。


正直、今の日本全体が少しずつ狂っているように思えます。
それとも世界全体でしょうか。
いえ、そもそも「まっとうな」ことなどあったのでしょうか。


どうしたって、そんな世の中、生きやすいはずがありません。