活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

つれづれなるままに日暮硯に向かいて

○「魂は細部に宿る」と言います。
その通りだと思っています。ほかにも「画竜点睛を欠く」などともいい、結局、細部にこだわりを持っているかどうかが、その人の真価が分かる部分ではないでしょうか。


教育産業に移って早3年が経とうとしています。
しかし、ホント上司のくだらなさといったらありません。
その理由の一つが、挨拶です。
自分たちは「挨拶は大事だ。きちんとしろ」と職員やアルバイトに言っているくせに、その実、自分はまったくできていません。
まったくできていないなら、まだましも自分の好みの生徒にはきちんと挨拶をするからたちが悪い。
しかも、仕事をしながら生徒のほうを見ようともしない。


顔を上げるだけなら、0.1秒もかからない動作です。
当然、仕事をいったん中断することになりますが、顔も見ずに言われる挨拶なんて挨拶といえるでしょうか。


これは掃除や整頓にも言えます。
前の仕事も含めて、これをうるさくいう人間は多いですが、実行できている人間はわずかでした。
かの松下幸之助は、掃除こそが大事だ、と説いています。
その心は、掃除をすることで細部に目が行き届くこと、顧客に対する気持ちができること、掃除という行為そのものが仕事と同じだ、だというのです。
多くの社会人が「掃除だなんて」と思っているかもしれません。
ですが、掃除もできない社会人が多い。
そのことが「魂は細部に宿る」証拠ではないでしょうか。


細部にまでこだわった仕事をしましょうよ。


○「3年で辞めてしまう若者」「転職ばかり繰り返す若者」と言われて久しいですが、はっきり言えば老人のたわごとです。
まず、就職後3年間の離職率は微増しているものの、大きな変化はありません。
また、転職ばかり繰り返す、といっても、雇用の流動化が激しくなり、また終身雇用が崩壊した現在、より条件の良い職場へ転職するのは当り前です。
特に賃金しか魅力のない企業ならばなおさらです。


要するに、働く側にとって企業に魅力がないから退職・転職が起こるのです。
もちろん、働く側に問題がある場合も多々あります。
しかし、それを上回る理由で企業に問題があるといえます。
終身雇用がなくなり、雇用の保証がない企業では、企業の体質や問題を解決するよりも、新しい職場に移ったほうが費用対効果がよいと労働者が考えるのも無理ありません。


ブラック企業は言うまでもなく、多くの企業で問題となるのは、やはり人間関係、特に上司や同僚との問題でしょう。
場合によっては企業体質もあるかもしれません。
だれか一部の人間の利益にしかなっていない状態がある企業はまず間違いなく問題のある企業です。
企業がその人を中心に動いているからです。
そして、それ以外の人の労役(あえてこの語句を使います)によって成り立っています。
だから、多くの人がそこから逃げ出すわけです。沈没する船から逃げるネズミよろしく。
残るのは、逃げられない人だけ。利益を享受しているか、逃げるだけの能力がない人間です。
そういう企業は悪くなっていきます。一方、優秀な人間は別の企業へと集約されていきます。
結果、多数のDQNな企業(笑)80%とみんながうらやむ企業20%が出来上がります。


考えれば当たり前の話なのですが。


○『土偶展』に行ってきました。
もう、土偶萌えです。あのプロポーション、あのフォルム、いいですねえ。もうオジサン、ドキがムネムネしちゃう(笑)。
縄文人のこだわりが見えた展示でした。
土偶という存在に、何かの思いを込めて制作していたことは疑いありません。
それが初期の素朴な思いから、中期・後期の具体化された形へと変化していく。
それを考えるのは非常に面白いです。


縄文早期は板状の土偶がメインになります。
この段階では、人なんだか何だか分からないものです。ただ、女性らしき特徴を備えていることから、意味のあるものだと感じられる程度です。
しかし、前期から徐々に立体的かつ具体的な土偶が出現します。中期・後期でよくみられ、日本史の教科書でも見られるようなアレです。
ただ、そこに見えるのは人間の妊婦ではあるけれど、人間らしからぬ一面を持つ像です。
多くは頭部が人間らしからぬものです。


おそらくは仮面をつけたシャーマン、ないしはかぶり物や髪形が特徴的な呪術的な人物なのでしょう。
初期宗教では、よくシャーマンはトランス状態におちいることで神(ないしは霊的な存在)と交信します。
彼らは仮面をつけることで、非人間性を持ったり、普通の人とは違う格好であることが多い。
そういうものと妊婦という生命を生みだす「豊穣」が合致したんだと考えられますが、本当のところは分かりません。


でも、やっぱり考古遺物は面白い。
大学で勉強していましたが、今もその面白さは変わりません。
やはり自分は物事を知り、それを考えることが好きなんだな、と再認識しました。