活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

言葉の身体

中庭の出来事 (新潮文庫)

中庭の出来事 (新潮文庫)


相変わらず恩田陸は面白いですね。
しかし、ただそれだけでは芸がないので、演劇の話だけに少し芸のある話を(苦笑)。


台本として『中庭の出来事』を見ると、必ずしも面白い作品ではありません。
台本として言葉に身体性を持っていないからです。


ここでいう「身体性」とは何か。
もちろん、言葉から動きが出てくることが第一義です。演劇において言葉と動きとは不可分の存在です。
言葉は身体から出されるものですし、身体は(表面化するしないにかかわらず)言葉によるものです。
言葉があるから動きがあり、動きがあるから言葉がある。
もちろん、言葉だけ、動きだけ、ということもあります。しかし、全編を通して片方だけということはありません。


もう一つの意味として、言葉の自由度です。
言葉そのものが身体を持つ、ということです。
非常に抽象的な表現ですが、言葉が多面性を持つということです。受け取る人によって解釈が異なる言葉が、身体性を持つ言葉といってもいいかもしれません。
独立した身体ではなく、受け取り側の身体となる、というべきでしょうか。
すなわち、受け取り側によって多数の身体が存在する、といえます。


しかし、『中庭の出来事』の台本にはそれがありません。
これは初の脚本である『猫と針』も同様です。
恩田陸の言葉は文学としての魅力はあっても、舞台に上げて具現化される魅力はないといえます。


それゆえに恩田陸の言葉には魅力があるといえます。
身体性を持たない言葉、すなわち今回のような劇中劇中劇のような、裏が表、内側が外側のような移動が自由にできます。
ゆえに三つの物語が交錯しながら自由に行き来できる物語を描くことができます。


ただ、そのような言葉は文学にこそふさわしく、演劇にはふさわしくありません。
演劇は役者という身体を通して言葉を紡ぐ。どうしても、身体から逃れることができません。だからこそ、身体性を持つ言葉が重要になります。
そのために身体性を持たない言葉は舞台で生きることはない。


恩田陸の言葉は文学としては素晴らしいが、演劇としては不十分といえます。