活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

似て非なるもの、それを人は似非と呼ぶ

鋼の錬金術師 23 (ガンガンコミックス)

鋼の錬金術師 23 (ガンガンコミックス)

Pumpkin Scissors(11) (KCデラックス 月刊少年マガジン)

Pumpkin Scissors(11) (KCデラックス 月刊少年マガジン)


ふと、『鋼の錬金術師』と『Pumpkin Scissors』って似てるな。と思ったわけです。
で、なんでこんなにも違いがあるのだろう、とも思ったわけです。


ちなみに。両作品の説明を。
鋼の錬金術師』は、ご存じのとおり、スクエアエニックスの『月刊ガンガン』で連載されているファンタジー作品です。
舞台は錬金術という魔法(のようなもの)が存在する軍事国家。
主人公はかつて禁忌を犯し、自分の体(の一部)を失った兄弟。
自分の体を取り戻す過程で、国家の裏で暗躍する人造人間を知り、国家そのものを揺り動かす事件へと発展してく。


Pumpkin Scissors』は講談社の『月刊少年マガジン』にて連載されているファンタジー(?)作品です。
舞台は共和国との戦災がいまだ癒えぬ帝国。
主人公は存在しない部隊に所属していた一兵士。
彼はふとしたことかれら、戦災復興を目的とした陸情三課「Pumpkin Scissors」に所属することになる。
部隊の活動の中で、自分らしさを取り戻していくが、同時に停戦状態の帝国に暗躍する地下組織の存在が浮かび上がってくる。


とまあ、簡単に説明するとこんな感じですかね。
どちらも舞台は産業革命からWW?くらいまでのヨーロッパをイメージしています。『Pumpkin Scissors』はもっと明確にドイツをイメージしています。
主人公も少年と青年の違いはあるものの、人間として重要なものを失った存在として描かれています。『鋼の錬金術師』は肉体、『Pumpkin Scissors』は人間としての正常な精神(あるいは戦災)。
物語も失ったものを取り戻そうとする物語です。その過程で、失ったものとは直接関係ない、世界の危機に直面します。


実は、ここまでは物語ではよくあるパターンです。
では、なぜ『鋼の錬金術師』は大ヒットし、『Pumpkin Scissors』は微妙なヒットに終わっているのでしょうか。


いくつかありますが、大きな点は「魅せ方」の違いです。
鋼の錬金術師』は、たとえば「復讐」というキーワードに絞っても、複雑な伏線を張っています。今回のロイ・マスタングのエピソードも、それまでのスカーの復讐劇や、民族紛争、スカーとウィンリーのやり取り、など、さまざまな伏線を経ることで言動の正当性(納得度)を得られます。
それに対し、『Pumpkin Scissors』は、物語の構成上の問題もありますが、その回だけで終わっていて、次回以降の伏線として繋がりません。なので、急に泣き出したり、急に感情を吐露したり、という突然さが否めません。読んでいる側からすると、「泣かせに入っているな」と逆に引いてしまいます。
おそらく本人(著者)の中ではなにかあるのでしょうが、読者側からすると有機的なつながりを感じられません。


そういう違いから、片やキー局でのアニメ化、片や地方局でのアニメ化と差がついてしまうわけです。
もちろん、それだけではありませんが。


これは以前から言っていることですが、物語自体にオリジナリティはもはや存在しません。
どのファクターも以前にやられているものばかりです。せいぜい、その組み合わせくらいしか新しさ・オリジナリティを求められません。
では、どうしたらいいのか。
そこで「魅せ方」の登場です。
あるエピソードを魅力的にするために、どう展開していくか、それが今後の物語には重要になってきます。
それがない物語は自然と淘汰されていくでしょう。