活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

私たちは永遠に分かり合えない

現代社会はコミュニケーション不全だ。


世代間はもちろん、同世代間でさえ意思の疎通が難しい。
それは共通概念が多様化してしまったためだ。常識と言い換えてもいい。
それぞれのバックボーンの共通部分が少なくなってしまったため、言語が必ずしも同一の意味を指さなくなってしまった。
社会学は「大きな物語」の喪失として、事実の相対化が進んでいるとしている。


サマーウォーズ』のテーマは「コミュニケーション」だ。その一形態としての「家族」を描いている。
細井守監督はすでに『時をかける少女』のアニメ版監督として有名だろう。
今回の『サマーウォーズ』も、日テレが協賛しているため、テレビですでに知っている人も多い。子ども向けではないアニメでは異例(最近異例が多いが)の動員数ではないだろうか。ぴあの動員数ランキングで10位を記録している。


新しいコミュニケーションツールとして立ち上がった「OZ」、しかし、侵入したハッキングツール「ラブマシーン」が暴走し、「OZ」は機能不全に陥る。それに対し、アナログコミュニケーションである「人間関係」で立ち向かう陣内栄。この対比はまさに「コミュニケーション」をという内容だ。
現実世界では、陣内一家と小磯健二の関係が描かれている。しかし、ここではほとんど特徴的なコミュニケーションはない。物語の進行も唐突さを否めない。
監督の目的としては「いまどきの若者」が「伝統的家族」に触れることで、どう変わっていくか、を描きたかったのだろうが、横に押しやられた感がある。
健二がOZのパスコードを解いてしまったがために犯人扱いされるシーンは、物語の中でほとんど意味をなしていなかった。せいぜい分からずに解いた暗号がOZのパスコードだった、くらいの意味合いだ。
陣内家当主、栄とのやりとりも、物語の中では絶妙なタイミングで挿入されているが、内容自体はもう少し再考の余地がある。
もちろん、栄が90年の人間関係を駆使して世界を救ったように、健二が陣内家との関係を使って世界を救おうとしたという対比は面白い。
ストーリーでの重要なポイントの一つだろう。


しかし、それより着目すべきは栄と侘助の関係だ。
陣内家当主である栄と、栄の夫の隠し子の侘助。本来であれば、相容れない存在である二人が、実は深く結び付いていたのはコミュニケーションを扱った本作の中で、もっともよくできていた。
大事なのは血筋ではなく愛情だということを血筋の代表のような栄自身が実践している。その事実に、感動さえ覚える。
同様に、その愛情を素直に受け入れられないでいながら、しかし栄に報いたいと考えている侘助
微妙な関係にありながら、しかし、そこに確かな愛情が存在した関係。これは回想シーンや侘助が陣内家へ戻るシーンでも、離れそうでもしっかりと手をつなぐ親子として印象的に用いられている。
この二人の関係こそが、本作のもっとも重要なキーポイントではなかったではなかろうか。


同時期の公開映画に『エヴァンゲリヲン・破』がある。
新映画版を見ていないが、旧作(テレビ・映画含め)は見ている。そこから話を進めると、『エヴァンゲリオン』はまさにコミュニケーション不全の物語だ。
父親や同級生、周囲の大人たちとコミュニケーションが取れない少年、碇シンジの物語だ。
手に入れたはずの能力、エヴァを操作することさえもままならないことさえある。人やモノや世界と会話することがままならない状態を描いた作品といえる。


エヴァンゲリオン』は、そのコミュニケーション不全に着目した点に新しさがあった。20世紀末に提示したことに意義があった。
しかし、21世紀も9年過ぎた現代では、少々時代遅れと言わざるを得ない。
今は、そのコミュニケーション不全をどう克服するか、が課題だ。
その点で『サマーウォーズ』はその提示を試みている。ただし、その解決法において「伝統的家族」との接触がメインに出ていたのが残念だった。
むしろ、もっと栄と侘助との関係にクローズすべきだった。
そうすると、健二の存在が薄れてしまうが、現時点でもやや薄れ気味だから問題がないといえばない(苦笑)。


総括すると、『サマーウォーズ』は前作『時をかける少女』よりも断然面白い。
一部のマニアだけではなく、全世代に受けいられらる幅の広い映画だろう。アニメとしての面白さもあり、押井守監督のような哲学的世界観でもない。
現在活躍するアニメ監督の中で、もっとも評価の高い監督の一人です。