活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

長ければいいと思ってるんじゃないの?


最近、映画って上映時間が長いですよね。
かつては1時間半くらいだったのが、最近では2時間を超えるのが当たり前になってきました。
同じように音楽も演奏時間が長くなっています。


芸術には2つのベクトルがあると考えています。
1つは「ブンガク」としての芸術、1つは身体としての芸術です。


「ブンガク」とは、文学に限らず、何かしらのストーリー、物語性のことです。
起承転結がある芸術といえます。文学、シナリオ、歌詞、マンガなどがそうでしょう。
そして、この手の芸術は物語性があるがゆえに、作品自体が長くなる傾向があります。起承転結がある以上、受け手へ説明をする必要がある。より詳細に正確に伝えようとすると、当然作品は長くなります。
芸術要素の中の、ストーリーにスポットライトが当たっているわけです。
だから、それを作り手は必死に説明しようと、物語性のみを抽出してしまうのです。


けっして間違いではありませんが、「ブンガク」は物語性だけで構成されていません。
ほかの要素も十二分にあります。
それでも、現状ではそこに特化されています。


もう1つの、身体としての芸術とは、非言語による表現です。
ダンスや音楽、彫刻、ジャグリングなどがそれです。絵画も入れてもよいかもしれません。
身体を使った、あるいは身体を媒介とした(送信、受信含め)表現手段であり、「ブンガク」とは対照的な芸術といえます。


「ブンガク」は突飛さはあるものの、論理的思考で判断できる芸術です。
身体としての芸術は、論理的思考ではなく体感としての芸術です。
理屈や方法論はあるものの、本当に素晴らしいものは、そのような論理性は後付けに近いといえます。
アタマがすごいと思うのではなく、圧倒される感覚ととらえられるでしょう。
たとえば、祭りの興奮は理屈でこう、というより、その場の臨場感・体感がすべてです。ゆえに、祭りに参加した人とそうではない人では、興奮を共有することができません。


言語では伝達できない感覚、それが身体としての芸術の特徴といえます。
「ブンガク」はすべてを伝えることはできませんが、ストーリーを伝えることはできます。そして、そのストーリーだけで多くの人は「分かった」と思ってしまいます。
ここが2つの芸術の大きな違いです。


そして、身体としての芸術は伝える時間が一瞬です。
音楽の一音、ダンスや能楽の動作、絵画や彫刻を目の当たりにした瞬間、この芸術の素晴らしさがそこに存在します。
ほんの一瞬で身体へ伝達することができます。


役者というのも、本来は身体としての芸術だと思うのです。
もちろん、演劇であれ映画であれドラマであれ、シナリオが存在する限り、純然とした身体としての芸術ではないでしょう。
しかし、役者という一要素は身体としての芸術です。
音楽やほかの演者もそうです。


つまり、役者に一瞬でひきこむ芸術性があれば、必ずしもシナリオによる(コンクリのような)土台がなくても世界が成立するということです。
逆に、今の役者にその技量がない、ということではないでしょうか。
ただ、じゃあ、昔の役者にあったのか、といわれると、よく知らないのですが。単純に今昔を比較しているわけではないので、そこには言及しません。


時間が短くても、高い芸術性を持つ作品を見てみたいものです。