活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

マニュアル人間のどこがいけない

何事もそうですが、スタンダード・マニュアルの不在が問題です。
仕事にしても何にしても、その世界のスタンダードあるいはマニュアルは絶対的に必要です。


最近、プロの方の「マニュアルがないのがマニュアルだ」という言葉を目にしますが、それは半分正解で半分間違いです。
確かに、マニュアルに固執していては新しいものはできません。
しかし、一番始め、その世界に踏み込んだときはマニュアルが必要です。
また、スタンダードがあるからこそ、そのヴァリアントや脱却ができるのです。いわば、物事の核のようなものです。


例えば、果実を想像して下さい。果実は中心に硬い種を持ち、その周囲に柔らかい実を持ちます。
果実の重要な部分は種です。実は遠くへ運んでもらうための手段に過ぎません(鳥などに)。
種さえあれば、どこででも発芽することは可能です。


同じように、何事も種となるスタンダード(マニュアル)があるべきです。
それがあって初めてマニュアルから脱却し、応用を効かせることができるのです。


勉強も同じです。
核となる勉強内容はどのレベルも一緒です。例えば、英語は単語が核です。「長文から始める」「これだけやればできる」という参考書もありますが、単語ができなければ英語ができるはずもありません。
なので、その核を見誤らないことが重要です。


だからこそ、スタンダード・マニュアルは必要です。
最近、仕事でも演劇でも文学でも、そのスタンダードが喪失している気がします。
生徒に基礎基本(=スタンダード)の徹底を言っている自分の周囲に、スタンダードがないような気がしてなりません。
見かけのスタンダードや応用ではなく、本当の意味でのスタンダードというのを考える必要がありそうです。