活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

老兵は死なず、フロントラインへと赴く

破戒と男色の仏教史 (平凡社新書)

破戒と男色の仏教史 (平凡社新書)


『破戒と男色の仏教史』
流石です、松尾先生。
日本中世史界のアウトローは伊達ではないですね。


一見すると、スキャンダラスな内容に思われますが、中身は真っ当な中世律宗史です。
この松尾剛次先生は、仏教史や日本中世史では異色の存在です。「破戒と男色」、特に男色についてはタブー視されていますが、それをあえて出してしまうところに、この先生の凄さがあります。というか、この先生。こんな研究ばかり。


もちろん、内容は非常に真っ当です。
しかし、仏教史というものは仏門に入っている研究者が多く(つまり僧侶)、各宗派の縛り(無言の縛りも含めて)が厳しいのが現実です。どうしても、教義との整合性を求めるために、宗派から見た仏教史と歴史から見た仏教史では異なっています。それゆえ、仏教史は何人かの研究者を除いて、さほど意義のあるものはありませんでした。
最近は、内側からそれを破る研究者も出てきているようですが、外側から叩き壊しているのが、この松尾先生です。


本論に戻って。
先程言った通り、この本の内容は非常に真面目です。
仏僧も人間であるがゆえに欲からは逃れられません。それを改革していこうという中世の動きを扱っているのが本書です。
本来、仏僧とは戒律を遵守するものです。しかし、人間であること、古代の寺院世界がもう一つの貴族世界になっていることなどから、破戒が横行することになります。
それを改革していこうとしたのが、中世仏教の動きでした。その一つがよく知られている鎌倉新仏教です。
しかし、本書では律宗の改革を中心に論が展開されています。それは律宗というものが、仏教の戒律を重視する教学であるからです。


本書は戒律「復興」運動を論じると同時に、古代仏教から鎌倉新仏教への転換をも視野に入れています。
古代仏教南都六宗や天台・真言という宗派があるようで、その実仏僧自身は宗派にこだわりがありませんでした。それはこれらの宗派は教学(仏教の理論を学ぶこと)に過ぎず、彼らに重要なことは国家鎮護でした。この時代の仏僧の多くが「官僧」であったためです。
初期鎌倉新仏教もその考え方が強かったようです。ただ、ここでは問題ではないので置いておきます。


ここで重要なことは、鎌倉新仏教(それまでの宗派の復興も含め)が個人救済へと転換したことです。古代仏教では仏僧は死穢は禁忌でした。しかし、鎌倉新仏教の担い手はむしろ死穢などに積極的に関わっていきます。ハンセン病患者の救済もその一つです。
それは他者を救うこと、すなわち菩薩思想にあります。
鎌倉新仏教の担い手たちは、他者を救うことを第一義として考えていました。古代仏教では考えられなかった思想ですが、仏教の復興という視点からは当然の行為と言えます。
この行為がのちの鎌倉新仏教の教団形成に重要な役割を果たします。


彼らの初期の原動力こそが、古代仏教集団のモラル低下です。
守るべき戒律を破り、女色も男色も禁じられているのにもかかわらず、それが公然化してしまっている現状に、彼らは戒律復興運動を起こします。律宗で言えば、その中心地が西大寺唐招提寺でした。
例外は浄土真宗で、彼らは逆に「無戒」とし、戒律自体をなくしてしまいました。律宗浄土真宗ではまったくベクトルが異なりますが、出発点は同じです。


この中世仏教特異点を、本書は見事にとらえています。
これまでの歴史教育からはまったく分からない、新しい鎌倉新仏教観をうかがうことができるでしょう。
日本における仏教はもっと人間くさいものですし、ゆえに改革していこうという動きが常にありました。そういうダイナミズムで語れば、もっと歴史は面白いのに、と思うのですが、世の中の教育はなかなかそこまで到達できていません。


こういう人間的側面からの研究はないわけではありません。
実際、網野善彦氏は政治的な部分ではなく、人間に即した部分を明らかにするために数々の研究をしてきたはずです。
人間性から見た歴史をもっと明らかにすることが、これからの歴史学に求められていることではないでしょうか。