活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

不確かなセカイの中で



動物化するポストモダン』を文学方面に広げた著書です。
ゲーム的リアリズムという視点は非常に面白かったです。ポストモダン状況が進行する日本文学の中で、新しい表現が生まれているということも確かに分かります。


ですが、本書の中にある「環境分析的読解」がどうにも解せません。
確かに、東氏のいう通り、それまでの自然主義的読解が90年代以降の作品では通じないことは明らかです。特に、メタ構造的文学がそうでしょう。極論してしまえば、夢オチネタに近い構造ですが、現代のメタ構造はむしろ現実に戻るのではなく、怪奇な現実に回帰する状況を描いています。そこに着目した東氏の洞察力は素晴らしいと思います。


しかし、それらの作品の扱い方に疑問があります。
それは、まさに宇野氏が指摘した通り、「環境分析的読解」に適した作品を賛美しすぎている点です。文学的価値はさておき、東氏が挙げた作品はうちに閉じた作品がほとんどです。メタ構造ではあるものの、結局自己完結してしまう「セカイ系」に属する作品といえます。
特に『AIR』については、本人自身が反家長父制でありながら超家長父制であると述べているにもかかわらず、「ダメ」の論理を指摘しつつも、それを越えていくモノだとするのには違和感を感じます。


動物化するポストモダン』では、オタクから見たポストモダン社会を論じていました。その視点は正鵠を射たものでした。しかし、今回、文学へシフトした時の東氏の論は、強引といえるでしょう。
ただし、ポストモダンによってメタ構造的文学が成立する、その指摘は彼のすばらしさです。メタ構造が成立することは、その物語自身が不確かであり、入れ替え可能なモノにすぎません。メタ構造はポストモダンの「大きな物語」の消失、取り替え可能なデータベースの特徴を示しています。


その点において、東氏の論は正当性を持っていると言えます。