活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

思想の地平にある、その先へ

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力


宇野常寛ゼロ年代の想像力
この著書は、いわゆるポストモダン状況が進む日本の社会状況を90年代から00年代にかけて、どのように変化していったのか。また、来るべき10年代に対して、現状をどう解決していくべきかを考察している著書です。
視点は、いわゆるオタク文化に傾倒しているものの、全般的には文学作品から思考しています。


本書を概説するならば、以下のようになります。
日本におけるポストモダン状況の進行と平成不況などにより、「大きな物語(歴史や国家、民族という絶対的と思える価値)」が消失し、置換可能な「小さな物語」が乱立している。置換可能であるがゆえに、価値観の浮遊が生じ、何を信じていいのか分からない状況が生まれます。
その中で、90年代とは、『エヴァンゲリオン』に代表されるように「間違うくらいなら何もしない」という「引きこもり/心理主義」が生じる。「大きな物語」や「父親」の消失による道しるべを失った世界での碇シンジエヴァに乗るものの、時に乗ることに拒否します。初期ガンダムではアムロガンダムに乗ることにより社会に承認されたのに対し、シンジにとってはエヴァに乗ることは社会的承認ではなくなっているのです。
さらに、90年代後半には美少女ゲーム(小説・マンガ)に見られる「セカイ系」が派生します。これはいわゆる「キミとボク」だけの世界観です。恋人に承認され、所有することですべてが満たされている状態(世界観)のことです。
そして、00年代は、「引きこもり」「セカイ系」を前提とした思想が生まれる。それが宇野氏のいう「サヴァイブ系」です。00年代、特に9・11以後、「究極的には無根拠であることを織り込み済みで、あえて」信じている「小さな物語」がぶつかり合うバトルロワイヤル状況が生まれました。そこでは無自覚な「決断主義」による思想の暴力が横行しているとしています。自覚的な決断主義者はルールを巧く利用しているものの、それ自体も「決断主義」から逃れているわけではありません。
宇野氏の視点は、その先の状態です。セカイ系決断主義が陥った「終わりのない日常」から「終わりのある日常」への転換、これこそが宇野氏の視点です。現状での「誤配のない小さな物語」による決断主義をどう克服するか、それが本書での宇野氏の論点といえます。


この著書で、もっとも炯眼だったのは00年代の思想を「決断主義」と論じたこと、その限界点を見いだしたことです。
この著書でも語られているように、9・11小泉改革により、我々はシンジのような「間違うくらいなら何もしない」という「引きこもり」ではいられなくなりました。それこそ「自己責任」という名の下に決断を強いられています。00年代を生きる人間は己の信義を「究極的には無根拠であることを織り込み済みで、あえて」決断しているのです。
しかし、決断主義には限界点があります。それをもっとも端的に表しているのが内容でも触れている『DEATH NOTE』です。夜神月(ライト)は世界がすでに寄る辺である価値観を喪失していることを織り込み済みで、ゆえに新しい世界を創造しようとします。彼は自覚的な決断主義者といえます。しかし、その彼は最終的には同様な自覚的な決断主義者であるニアに破れます。ですが、そのニアもライトが作り上げた世界観を壊すことはできていません。誰もがバトルロワイヤルの中で、「小さな物語」同士を戦わせているに過ぎません。いわば「小さな物語」の交換に過ぎず、ポストモダン的な置換可能なモノにすぎないのです。


また、「セカイ系」といえる萌えブームや昭和ノスタルジーも同時並行で進んでいますが、それもまた袋小路に陥っています。そもそも袋小路の閉じた世界観であるので当然といえますが。「セカイ系」に決断主義が混じっていきますが、それは「安全に痛い自己反省」の装置に過ぎません。安全に痛い自己反省をすることで、むしろレイプ・ファンタジーや昭和ノスタルジーを強化しています。そうすることで、自己肯定を果たしてしまうために、思想停止を起こしてしまいます。セカイ系の限界点といえるでしょう。


これらの限界点は新しい地平を開く鍵でもあります。
宇野氏は、その一つの答えとして『ラスト・フレンズ』を挙げています。同作はセカイ系から始まり、その克服をテーマにしているとし、主人公三者の関係性を一つの答えとしています。それまでのセカイ系のような誤配のない同質な価値観に生きるではなく、誤配がありながら互いの関係性を模索することこそが、次の思想と考えています。
それ自身は納得のできる説ではあります。ただし、私はポストモダンである置き換え可能な世界観の中で、社会的に実行力を持ちうるのかという疑念があります。「文学」としての模索としては白眉ですが、現実社会としてできるのかは疑問とするところです。もちろん、「政治的」には難しいと本人も告白しているので、あえて追求するのはどうかとは思いますが。
もう一つの問題点は、東浩紀氏もそうですが、宇野氏もまた論点が常に「男性」を対象としている点です。ポストモダンが進行している状態で、同じ状況におかれている女性からの考察がまったく欠如しています。セカイ系が母性の肥大化だというなら、女性からの視点はどうなのか、それを追求する必要もあるのではないでしょうか。


ゼロ年代の想像力』は、非常に洞察力に優れています。
しかし、同時に男性視点であるという限界もまた存在します。確かに少女マンガに触れていますが、それは女性から見たポストモダン状況ではない点が気がかりでした。