活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

中世という時代

最近、書籍(小説・新書エetc)を少し読めば、その質というものが分かるようになりました。
文章には、コストの高いものとそうでないものがあります。
コストの高い作品とは、どれだけの情報量を使って文章を書いているか、ということです。


伊藤正敏『寺社勢力の中世』
この新書もまさにコストの高い作品といえます。
この本は網野善彦『無縁・公界・楽』をさらに進めた歴史研究です。網野以後、いわゆる「網野史学」として無縁の衆生が歴史研究に取り入れられてきました。
しかし、とはいうものの歴史研究の主体はあくまで政治史、天皇を中心とする公家社会、武家社会でした。寺院史ももちろん研究されてきましたが、歴史学のスタンダードには至りません。


私自身、大学は史学科に所属しており、しかも自分の大学が仏教系だったため、寺院史は身近にありましたが、多くの歴史家にとっては縁遠い存在です。


網野史学は無縁の存在を研究対象としたエポックメイキング的な存在です。しかし一方で、無縁の根拠が曖昧であったことも否めません。
それは本書では、神人や行人という下級神官・寺官に焦点を当て、彼らがもっぱら行っていた商業活動に注目しています。また、寺院の主体は学侶(上級寺官)ではなく、彼らだと明らかにしています。


伊藤氏は、無縁の根拠を寺院の聖性ではなく、寺院の武力と経済力に見いだしています。中世は自力救済が原則であり、寺院といえども武力と経済力のない寺院に無縁が存在することはありません。事実、氏寺などのいわゆる御用寺社は、権力者の権威を根拠にしています。


中世の寺院の実情を神人や行人から明らかにする研究は、これまでほとんどありませんでした。それだけでも充分に読む価値がありますが、それ以上に寺社を第3勢力と考える姿勢がこれまでになかったものです。
ただ、史料が少なかった気がします。これは紙面の問題で仕方ないのですが、そこは残念な部分でしたね。