活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

日常を観察する力


現代演劇とは〈都市の祝祭〉である、という考え方がある。
この考えの根底には、演劇とは本来祭り(あるいは呪術)から発生した事実がある。それが都市での祝祭という非日常空間である、という考えを生んだ。


しかし、私はそうは考えない。
確かに非日常空間ではある。しかし、すでに演劇も都市化・近代化しており、かつての祭りの要素は排除されている。空間が日常から切り離されているために、見た目の現象が〈都市の祝祭〉に見えるに過ぎない。


非日常そのものが祭り(ハレ)である、という考えもあるだろう。しかし、それではどのレベルであっても祭りになってしまう。それでは歌手のライブも祭りだ。だが、あれを祝祭と考える人間は少ないだろう。少なくとも、歌手と観客を作り出す非日常空間に過ぎない。
演劇やライブなどの非日常は、TVや映画と類似したモノと考える。原始の祭りのように危険を伴うものではなく、安全が確保された閉じた世界だ。


しかし、日常から切り離された空間だからこそ、日常に存在する常識を打ち壊せる。日常のルールを意図的に放棄することができるのだ。
近年、TVが自らを律し、ルールを厳密化している行為はむしろ非日常空間を日常空間にしている逆転現象でもある。
だが、演劇やライブにはそれがない。だからこそ、日常を否定する(あるいは肯定する)力が生まれる。それこそが現代演劇の要素ではないだろうか。


そこに現代演劇の魅力があるように思える。
だから、私は現代演劇とは〈都市の祝祭〉ではなく、〈日常の対比存在〉だと考える。