活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

無自覚な無責任

そもそも、日記であり独り言なので断る必要はないのですが、以下のことについては明確な解答を持っていません。ただ、何となく思っただけです。
なぜ、こんなことを書いたかと言えば、思想的な発言に必ず反駁しようとする輩がいるからです。論点を得ていればいいのですが、得てして感情的な攻撃に過ぎないので、あらかじめ断っておきます。


かつて、共産主義あるいは共産革命を目指していた彼らのスローガンは「資本階級・支配階級の打倒」でした。主な理由として、彼らが労働階級から不当に搾取している、というものでした。
しかし考えると、彼らが目指した社会は少なからず「資本階級・支配階級」への搾取によって、その財を労働階級に再分配することによって訪れる社会でした。言い換えれば、資本階級への逆搾取にほかなりません。それは思想的に矛盾しているのではないでしょうか。


現実問題として、(共産革命に限らず)改革は何かを破壊することによって生み出されます。旧制度の破壊によって新制度が誕生する理屈です。一面では正しいのですが、多面的に見ると必ずしも正しいとは言えません。
一つに、その古いものが新しいものより良い場合です。
これは改善ではなく、改悪です。そして、それが実行されるロジックは古いものが時代に合わない、弊害が多い、などです。古いものを捨てさせ、新しいものを買わせる。悪徳商法とまで行きませんが、ある種の商売と同じ構造です。


もう一つは、必ずしも新しいものが突如として生まれないということです。
歴史が連綿と、継続的に続いているように、何事も過去から未来へと連続しています。古いものを破壊することで新しいものが生まれますが、同時に古いものの再構築という側面を持っています。
しかし、それを考えず、一切を無に返したうえでまったく新しいものを作ろうとすると、そこには現実との乖離が生まれます。明治政府がしかりです。明治政府も、それまでの価値観から西洋の価値観に転換しようとしながら、天皇制に依存しなければ存在し得なかった政府です。


このように、共産主義・共産革命を信奉した彼らは、そのことをまったく考えていなかったように思えます。
60年代の学生闘争は端的にそれを表しています。あの闘争は大学生の枠を超えることはなく(社会人としての視点の欠如)、一つの箱庭的思想にすぎませんでした。そこに現実との乖離があったわけです。


これは何も60年代の学生に言えることではなく、日本全体に言えることです。
それは、変化させることで何かが破壊されることに無自覚な点です。それが新しいものを生み出す契機にもなりましたが、同時に無責任さも生み出しました。
そのツケが未来に継続しているわけです。
自分の行動に対し、もう少し自覚的になる必要があるのではないでしょうか。