活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

明日はどっちだ

物事は正しい方法があって、その方法を習得し、実践することが真の道だ。


表現は異なれ、おおむね古今東西の物事は、こういう概念を持っています。
特に顕著なのは、西洋哲学、特に形而上哲学でしょう。
最近、『風姿花伝』と『五輪書』を読んだのですが、やはり日本の「道」も同様の思想が見られます。
どちらも方法論があって、この道を違わず進む先に極みがある、としています。ただ、どちらかといえば、方法論を実践する中で、真理を体得せよ、という精神論的な部分もありますが。
そもそも口伝的要素が強いものですから、重要な部分は伏せられているのではないかなとも思います。そういう意味では、概念的であったり、当たり前のことであったりするのかもしれません。


私自身は、この考え方に基本的に賛成です。
なぜなら、「ベストセラーなんてダイッ嫌い!!」でも述べている通り、「間違った漢字を百回書いても正しい漢字は覚えない」わけです。正しい方法を習得することが一番の近道です。
ただ、ここで問題になるのは、「正しい方法」とはいかなるものか、ということです。


例えば、漢字や計算、デッサンなら正しい方法というのは一目瞭然です。
しかし、演劇・小説・音楽などの芸術にとって「正しい方法」とはなんでしょう。
演劇であれば、発声方法や体の扱い方があります。しかし、それは演じるための基礎でしかありません。それを繰り返しても、「演劇」にはならないと考えます。演劇をするための肉体にはなりますが。
つまり、表現にまで達するための「正しい方法」というものが存在するのか、ということです。
これが私の最近のテーマです。
小説もしかり。文章として「正しい方法」は存在します。しかし、それを続けても果たして「表現」としての小説になるのか。


それを考えているのですが、やはり答えは見つかっていません。