活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

身体のフィーリング、言葉のロジック

身体の感覚そのものを他人に伝えることはできません。
ですが、その時身体に起こっているメカニズムを説明することはできます。


身体の感覚はいわば人間の感情のようなものです。
心理学だって、人間の感情そのものを理解することはできません。むしろ、人間の言動や身体に表出したものから、その人の感情や心を理解します。つまり、周辺を埋めることでなかを露わにするわけです。


同じことが身体の感覚にも言えます。
身体の感覚そのものは、その人以外に理解しようがありません。例えば、体が重たい、という感覚があるとします。けれど、それは本人にしか理解できません。他人はその人の言葉を聞いて、様子を見て、身体の症状を看て、その人の身体が重い、ということを知ります。
それは体重が重いのか、熱で動けないのか、筋肉痛が辛いのか。それは分かりません。それを体験しない限り、人は理解できません。つまり、言葉で伝えることができないのです。


そもそも伝える行為は、人が言葉で他人に理解してもらうことです。言葉で理解できないものは伝えることができません。あとは感じてもらうほかありません。しかし、それも似たような経験をしない限り難しいでしょう。


最近の私の課題は、そのような言葉では直接表現できないものを、どうやって他人に理解してもらうか、ということです。
冒頭で述べたとおり、直接言葉にすることはできません。しかし、周辺を埋めることで、中身を浮き彫りにすることはできます。そのような手法で、身体の感覚を伝えることはできないだろうか、と考えています。
無理に身体の感覚をそのまま言葉にする必要はありません。もちろん、身体の感覚を否定しているのではありません。舞踏を見て、身体の感覚を感じられます。しかし、それを的確に言葉にするのは至難の業です。言葉にした段階で、どうしてもポイントがずれてしまうのです。


ならば、伝え方を変えればいい。
そうして、いかに論理的に表現し得るか、そこが現在の私のテーマです。