活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

今は昔、

かつて、私は「名著なんて今の著作にかなわない」と思っていました。いまでも思っている部分もありますが。
その理由は、唯物論のような発展段階を思い描いていたからです。


しかし最近、「名著と呼ばれ、今も読まれている以上、そこに何かがあるはずだ」と思うようになりました。どんな小さなことでも、足しになればよいと思い始めたわけです。
そこで太宰治人間失格』、夏目漱石『こころ』を読んでみました。
結論から言えば、現代の小説と同じでした。


正確に言えば、現代の小説と同じ構造であったり、テーマの扱い方が同じでした。
例えば、『人間失格』の物語構造は主人公がダメな人間になる一生を「それ以外にありえない」ように作り上げています。エピソードが一つ終わるたびに、それが次へのエピソードへ繋がる。問題→解消→問題→解消→の物語構造です。これは現代の小説構造の基本です。


『こころ』はテーマの扱い方に秀逸さを感じさせます。物語の構造自体はまだ現代ほど完成されていません。しかし、テーマの描き方は同時代の作家の中で異なります。
それはジェネレーションギャップをうまく利用している点です。多くの場合、その世代の感覚のみで小説を描くパターンが多くあります。現代でもそうです。そういった小説は特定の世代に受け入れられますが、世代を超えることはありません。
夏目は江戸までの価値観と明治以降の価値観をうまく利用しています。その価値観の違いが「先生」の罪をいっそう悲壮にさせています。


物語構造がすでに現代の小説と同じであること。すなわち物語の完成度の高さが見られる作品は名著と呼ばれるし、長く読み継がれるわけです。
当たり前といえば当たり前ですが、今の小説でさえ理解して、それをすることができるでしょうか。
昔も今もあまり変わりないとも言えます。