活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

カードはハートのエース

物語は結局、「テーマ」「題材」「仕掛け」に分解できます。
そして、「テーマ」も「題材」も目を見張るようなものは見かけません。「テーマ」は何を訴えたいかですから、自ずと似通ってしまいます。同じように「題材」も世の中に存在するものですから、目新しいものは新しい存在だけです。そこにはみんなが飛びつきます。


だとすると、残っているのは「仕掛け」だけです。一番分かりやすいのはミステリのトリックですね。読者を驚かせる「仕掛け」だけが物語を分けるものです。
残りは組み合わせに過ぎません。一つ一つは大同小異の違いに過ぎないので細かい点は省きます。


現に、テレビ・映画の世界ではネタが尽きたのか、リメイクや原作ものが多く放送されています。昔からなかったとは言いませんが、主従関係が逆転しています。かつてテレビドラマから小説になるノベライズが流行った時期がありました。しかし、今ではそのようなケースはほとんど見受けられません。
この問題は単純に映像側の制作能力低下だけではなく、ドラマに反映させるべき世相が読めなくなったことにも原因はあるのですが。


小説側もそれほど物語の制作能力に長けているわけではありません。映画化されている小説も、いわゆる名著といわれるものが多くあります。『指輪物語』『ナルニア国物語』がそれです。
ほかは『世界の中心で、愛を叫ぶ』の二番煎じである作品の映像化が目立ちます。恋愛ものはそれ単体では売れないと、業界では言われているそうです。テーマが使い古されすぎていますしね。題材も「死んだ人への思い」がこれでもかと使われています。そこに差異は認められません。


様々な物語が出てくる一方で、描けるテーマや題材、仕掛けは減っています。同じものやっても、それは二番煎じに過ぎません。
結局、組み合わせと仕掛けでどう面白く魅せるのか、どれだけクオリティを高められるかでしか物語は戦えないのですね。悪いことではないですが、作り手にとっては厳しい状況です。