活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

オモイは泡沫と腐り、カタチは水面に消えて

筑波大学学園祭で演劇サークルの公演を見に行きました。
ちょっと知り合いがいるので「振り返れば、水を見ていた」を見ました。『筑小芝居小屋+実験室2.0』という学園祭の企画の一つらしいです。


さて、感想。
一公演30分という制約つきという前提条件で。
まず舞台全体ですが、完成度が低かったです。なぜ完成度が低いかというと、各所に粗がみえたためです。それは役者の幅によって生じる粗ではなく、練習を繰り返した中で埋めきらなかった粗です。それは言葉回しだったり、動きだったり、照明だったり、脚本だったり。
そういう未完成さを見えてしまう芝居は、やはり完成度が低いですね。


次に脚本ですが、詰め込みすぎです。やりたいことは「水子の生きたいという訴え」だと分かります。しかし、30分という時間の中で、訴えられるものはわずかです。
しかも、場面がころころ変わって観客が消化する前に次へ移ってしまいます。どうせなら、小津作品のように一場面で繋がった作品にした方が観客に優しい。
訴えることは一つなのに、ストーリーに無駄が多かったですね。「私は生まれたかった」と言いたいなら、朝香と凪をメインにして、二人のやりとりの先に暁が現れて……みたいにすればいい。
最初のシーンも水子(凪か夕)が一人で「私は私が分からない。何故ここにいるのだろう。分かることは、この男(女)。嫌いだ。ダイッ嫌い。この気持ちだけは確かだ」なんて独白させた方が舞台として映えます。


舞台装置。
プロジェクタは不必要。意味がない。むしろ、プロジェクタ自身の光がうるさい。
芝居途中でソファーを動かす必要なし。脚本の無駄な部分の都合に過ぎない。
照明設備。やるなら徹底的に。画用紙ではなく、和紙にして、電球も種類を変えて、淡い光にした方が雰囲気が出る。


照明。
フィルターの水色が効果がまったくない。なら、地明かりだけにすればいい。
備え付けのプロジェクタの電源は消して欲しい。でなければ、待機中のライトは塞いで欲しい。


さて、役者ですが。
夕と凪役はそれなりに見られました。
ですが、暁と朝香役はどうにも。暁役はそれっぽく演じているだけ。彼がそこで台詞や動きをする必然性を考えていない。朝香役は小さい声はただ小さく、気持ちのこもる台詞は大きく……それは演じていません。小さくても力強い声で出せますし、気持ちをあえて抑えて台詞を言うことも必要。


演出はちょっと観念的ですね。
エンターテインメントをしたくない、って気持ちは伝わりますけど、エンターテインメントってホントに悪いものなの? こうしなければ、っていう感じが見えてしまう。基本はこうした方がよくなる、だと思います。
観客に伝わらなければ、どんな高尚な思想もないものと同然です。作り手と受け手によって作られる空間(鴻上的に言えば第3舞台)が必要ではないのかな。
正しいことを「正しい」というのは簡単だけれど、それはこどもの理屈。なぜ正しいのかを言わなければ、誰も聞いてくれないですよ。


そもそも、堕胎って掻き出されるので胎内では腐らないし。台詞に出てくる「セックス」とか「オナニー」という言葉は軽いし。現代の水子の背景にある未熟な性(性行為)が生々しくない。盛ったガキが勝手に作って勝手におろした、くらい言わないと。所詮、綺麗事になってしまう。
汚くていいんじゃない?
汚いからおろすんでしょう。でも、自分の都合でHするわけでしょう。
そういう思想を背景に言葉を紡がないと。Hしました。できました。おろしました。恨んでいますって、コントですよ。


厳しいことを言えば、こんなことをしている人の真似をしたいのかと思ってしまいます。真似はいりません。未熟でも必死に訴えるから面白いのです。