活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

空(から)のあいだにあるもの

演劇が存在しうる理由を突き詰めていくと、ライブという空間ではないかと思います。


諸子百家言いたいことはあるでしょうけれど、少なくとも「演ずる」という表現方法を用いているものは演劇、映画、ドラマとします。そこから考えると、映画もドラマもリアルタイムでもないし、役者と観客が同時に存在していません。
二者は記録することで、より大勢に観てもらうことを主眼に置いています。それが長所であり短所なのですが。


一方、演劇は劇場で役者と観客が同時に存在しない限り成立しません。確かにビデオ・DVDに記録されているものはありますが、あれはもはや映画やドラマの部類と考えるべきです。
というのも、ライブという空間が重要になるからです。
演劇とはすなわち空間を作り上げること、だと考えるからです。役者の声や身体、照明、音響、観客自身、舞台などすべてが「雰囲気」を含めた空間を作るためにあるのだと思うのです。


ですから、演劇はライブやコンサートに近いですね。アーティストのライブに行くファンは、その演奏している空間に身を置きたいわけですから。演劇も同様です。演技だけなら映像でもいいわけです。けれど、それでも劇場へ足を運ぶのは空間を共有したいからに他なりません。


その空間が何を意味するのかは、またそれぞれによって異なるのだと思います。能楽は神事的要素が強いですし、現代演劇の多くはエンターテインメントです。でも、その辺のことはあまり重要ではない気がします。
重要なのは、「空間を作り出すこと」だと思いますね。その空間をどう作り、どう演出するのか。それこそが演劇の善し悪しだと思います。


演劇や芸術になると、どうも理論やご高説が多いですが、その辺を無視している(指摘しない・実践しない)論は無意味です。
観客が望むのは、その空間なのですから(空間の一部である役者かも知れませんが)。