活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

キミにしかできないこと

映画には映画しかできないことがあり、
文学には文学にしかできないことがあります。


この休日は『太陽』と『夜のピクニック』を観て、読んで大満足でした。


『太陽』は敗戦末期の昭和天皇を追いかけた映画で、
ストーリーよりも昭和天皇の人格や苦悩に焦点を当てています。
実際、ストーリー的にはいつの間にか敗戦を迎えていたり、
飛躍するところが結構ありました。
あまり昭和天皇の人柄を知らないのですが、少し自閉症気味た感じ(*1)とか
頭はいいのにこどもっぽいところなど「あぁ、こういう人だったんだな」
と思わせる造りでした。


見えない部分に何かを見いだす、その日本的手法が昭和天皇の気持ちを
間接的に表現していました。
印象的だったのはラストシーンでの天皇と住持のやりとりです。
人間宣言し、ついに自由になった昭和天皇が従事に
「そういえば、あの人間宣言を書き取らせた青年はどうしている?」
「自害いたしました」
「とめたんだろうね」
「いえ……」
その時の表情と皇后のフォローがなんとも悲しい。結局、彼は最後まで
自由にも人間にもなれなかったのだと悲壮感を漂わせていました。


ただ、一つ不満なのは、この作品が日本人監督が描いたのではなく、
ロシア人監督が描いたという点です。
『麦の穂を揺らす風』をイギリス人監督が描くように、『太陽』は
日本人監督に描いて欲しかったです。そうすることで、日本は本当の戦後を
迎えることができるような気がするのですが。
まだ日本は本当の自由を手に入れていない気がします。


夜のピクニック』は言わずと知れた恩田陸吉川英治文学新人賞を受賞した作品です。
この作品で、ようやく恩田陸が広く世間に認知された作品でもあります。
いまさらかよ、とか思ってしまうのですが、それはさておき。
本作はただ一日歩き続ける、それだけの物語です。そこに融と貴子の兄弟関係が
絡んでくる。


この読後の爽快感は恩田陸流です。よくノスタルジーと評されますが、むしろ
もっと深層の日本人が持つ共通意識なのではないでしょうか。
物語は本当に夜通し歩くこととそこで語られる高校生の会話でしかないのに、
どうしてこんなにも心を揺さぶるのでしょうか。きっと、かつて自分にあった
感情に繋がっているからでしょうね。だから、みんなそれをノスタルジーと
呼ぶのでしょう。


恩田陸の作品は「人間は汚いけれど、それでも一生懸命に生きている人間は美しい」
というスローガンがあるかのような作品ばかりです。
人間が誰もが持つちょっとだけ黒い部分を浮かび上がらせ、それを抱えながら
必死に藻掻いている姿を描いています。そのリアリティーが共感を呼ぶのでしょうね。


どちらも「物語」という意味では何事も起こらない種類の作品です。
でも、何かは起きて、確実に何かが変化しています。それが観る者に、読む者に
何かを喚起させる。
どちらも映画でしか、文学でしか表現できないことです。
でも、だからこそ素晴らしい。
近年は酷くメディアミックスが叫ばれ、やたら映画化・ノベライズ化がされています。
でも、本当に素晴らしい作品はその表現でなければできないことが多々あります。


映画にしかできないこと
文学にしかできないこと


ひょっとしたら、その人だけにしかできないことがあるかも知れません。


キミしかできないこと


そんなことが見つけられれば、とても素敵だな、と思う今日この頃です。




(*1)近親結婚を繰り返しているため、皇族は障害をもつ人物が何人か出ています。
大正天皇などはその典型でした。昭和天皇人間宣言もあり、戦後は皇族以外から
皇后を迎えるようになっています。
それでも、海外の王室とは異なり、出自が厳しく審査されますが。
近年では黒田さんも旧華族出身ですし。