活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

「エンゲキ」するココロ

久しぶりに演劇を観ました。
といっても、友人が出ている個人劇団ですけど。
鴻上作『スナフキンの手紙』を短くしたものを上演していたんですが、出来としては……?


そんなわけで、ちょっと演劇に目覚めてみたりして、平田オリザ氏と別役実氏の演劇論なんて読んでみたりしました。
手法は違えど、やろうとしていることは同じなんですよね。つまり、「演劇する」のではなく「演劇の状態」であることを目指しているわけです。
何のことか分からない、という感じですが、要するに演技をする、ということは作り物を作り物として見せるわけです。絵空事でしかなく、嘘くさいわけです。彼らの求めているものは自然な状態のリアリティ(ここでいうリアリティとは舞台上の、という意味ですが)です。舞台上でいかに自然にリアルを表現できるか、そこに現代演劇の追求があるのでしょう。
いえ、別に役者を目指しているわけでも演劇関係者でもないので断定は避けます。


演劇界の極北、岡本章氏も「身体性」のリアリティを追求しています。彼の場合、能や舞踊など身体表現の普遍的な共通性──「身体の原形」というべきか、から演劇のリアルを探っている、と思います。


逆に、三谷幸喜氏とか松尾スズキ氏とかはリアリティとか表現とか知ったことか、エンターテインメントがしたいんだ! っていう人ですよね。


私としてはどちらともありかなと思います。だって、一人は芸術表現であり、一つはエンターテインメントだからです。手法や主眼が違うのだから、どちらとも共存可能です。むしろ、「演劇は芸術である」なんて偉ぶっている人間の気が知れません。鮪と豚肉と比べて何の意味があるのか、ということですね。


なんにせよ、最終的に観客のココロを掴めなければ、その演劇に価値はないんじゃないでしょうか。