活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

教育の明日はどっちだ

教育のコストは誰が負担するのか? (内田樹の研究室)
教育とは本来、国家を支えるためのインフラの一種だ。
今日、教育は個人の能力開発のためのものだという認識が大勢を占めているが、そうではなく富国強兵のためにある。
少なからず日本ではそうだった。
異論もあろうが、普通教育は明治政府下で行われ、その目的は富国強兵であった。
良質な兵士育成であり、高度な労働者(技術者)の育成である。


それは大学の状況を鑑みれば分かるだろう。
東京帝国大学は官僚を育成する場であったし、ほかの帝国大学は技術者や農業指導者、教育者を育てる場だった。
おおざっぱに言えば大学とは指導者を育成する場であり、彼らが国家を担い、国家を支える人材を教育してきた。
尋常小学校などは彼らに従う人々を教育する場であり、労働力の育成場であった。
集団行動の徹底化は、社会生活を学ばせるとともに、そのまま兵士訓練でもあった。


義務教育によって帝国政府は良質な人材を育ててきた。
その結果、日本は急速な成長を遂げた。これは教育なしでは語りえない。
帝国政府が義務教育を徹底したがゆえに、戦後の高度経済成長もありえた(もちろん、諸々の原因があるものの)。


振り返って、今の日本はどうだろう。
教育とは個人の能力開発としてしか認識されず、「個性」の名の下にゆとり教育が行われた。
その是非はあるものの、個人主義を助長したことは間違いないだろう。
個人の能力開発の目的は、どこまでいっても個人の幸福以外ない。
個人の幸福とは端的に金である。
開発した能力で金を稼ぐ。それによって経済的幸福を得る。この論理にしか行き着かない。


個人の幸福=金に異論があろうが、その意見が大勢を占めるのは疑いない。
その極みが高学歴=大企業=高収入という図式だ。


こうした素地が存在する以上、教育を社会インフラと考えることは難しくなる。
ゆえに、奨学金制度も負担を個人に帰そうとする。
本来は教育とは国家が担うものであり、その点においては高校授業料無償化は正しい。
教育は国家が提供しなければならないのだ、国家自身のために。


それをアメリカ式のように個人に負わせるのは間違いである。
だから、アメリカは学資ローンという名の蟻地獄を平気で生み出せる*1
それでは早晩国家はたち行かなくなる。
そうではなく、国家がいかに良質な人材を育てるために、教育に力を入れるかが国家の底力を養うために必要なことだ。
その意味では北欧型の教育を参考にすべきだろう。
もちろん、教育の中身やどういう人材を教育するかは、また別の問題となる。


だから、私は奨学金は受給資格をもうける必要はあるものの、返還義務などあるべきではないと考えている。
実際、旧育英会奨学金を借り、30半ばを過ぎても返しきれていない人を知っている。
そればかりか、学生支援機構は返済を厳しくしようとしている。これはもはや単なる金融会社ではないか。


ゆえに、私学や塾・予備校が栄える世の中になってしまった。
教育産業に身を置く私だが、基本的スタンスは公教育がまともなら教育産業は存在しなくていいと考えている。
しかし、現実は逆だ。
公教育が破綻しているから、私学や教育産業が肩代わりをしている。
何とも本末転倒ではないだろうか。


教育の夜明けは遠い。

*1:詳細は『ルポ 貧困大国アメリカ』に詳しい