活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

映像表現としてのアニメ

GYAOで『新世紀エヴァンゲリオン』の1話から6話までを見て、「ああ、間が面白いんだ」ということ。
もちろん、SF設定もマニアにはたまらないものがありますが、それだけでは社会現象にはならないかなと思うわけです。
何らかの受け入れられる要因があって初めて社会的に広まるはずです。


で、思ったことが「語りたいことを登場人物が語っていない代わりに描写が語っている」ということ。
エヴァンゲリオンの特徴の一つに、独特のコマ割、カットがあります。
斜め下から見たアングルや意味のないカットを多用しているところが、エヴァらしい、と表現されますし、実際、そういう演出のアニメも増えました。
例えば、よく出てくるシーンの一つにNERV本部の長いエスカレータがあります。


ここでは、2人の会話が延々と続きます。
ここに、2人の会話とエスカレータの間に何らかの関係性、あるいはエスカレータに何かが仮託されていることを喚起させます。
本当にあるかは別として、そう思わせることが重要です。
何らかのメッセージがあると認識します。
そういうことを繰り返すことで、この作品には深いメッセージ性があるのだと、我々は認識するのです。
もちろん、それが正しいかどうかは別ですが。


同時に、解釈の差異が生じます。
設定と絡み合って深淵さを演出します。きっとそこには何か込められているに違いないと。そうすることで、視聴者はそこからさらに何かをくみ取ろうとします。
その結果が社会現象を生み出したのではないでしょうか。


本論は社会現象に対して踏み込む気はなく、映像による表現の仕方、について考えたいと思います。
語らず、描写を見せることで受け手へメッセージ性を感じさせる。
これがエヴァの演出だったと考えています。その点において、エヴァは同時期のほかの作品よりも先行していました。
例えば、第2話の病院のシーンや第4話のラスト、ホームのシンジと道路のミサトが再会するシーンなど、あえてアナウンスなどを差し込む演出が多用されています。
本来無音でもいい場面を、日常の音を差し込むことで、場面上の「無音」を表現しています。
だからこそ、長い沈黙にも視聴者は耐えられ、なおかつシンジの「ただいま」という言葉も生きてきます。


同様の描写が語る手法は今敏監督作品でも見られます。
特に顕著なのは『千年女優』でしょう。
千代子が出演した映画シーンと過去のシーンを絡め、そこにある種のメッセージを見いだせる手法はエヴァと同じです。


ただ、これらの手法はエヴァ後には盛んに用いられましたが、2000年代後半には(少なくとも知る限り)ないように思えます。
その原因を、制作費的な問題から見ることもできますし、視聴者側からも見ることができます。
制作費的な問題は、長々とした作品を作ることができない、という問題です。
エヴァ自身もそうですが、少ない制作費で制作するためには、なるべく簡単な作品にしたい、という実情があります。複雑な作品はそれだけコストがかさむからです。
作り手としては分かりやすく、かつ作りやすい作品に流れていく傾向になります。
スポンサー側も視聴率のとれる作品を求めるので、結果、マンガのアニメ化が進みます。
原作があれば、かかるコスト(費用以外の)も低く抑えられます。また、マンガのファン層もいるわけですから、ある程度の視聴率、その後の展開による収益を見込めます。
エヴァのようにアニメオリジナル、しかもファンを選ぶような作品では、展開が難しいと考えるでしょう。
事実、アニメオリジナルでエヴァに匹敵する作品はないのではないでしょうか(『エウレカセブン』くらい?)。


視聴者側からも同じことがいえます。視聴者もそんな難解なものについていけない、ということです。
視聴者の趣味も時間の使い方も多様化し、あえて難解なものを手に取る必要がありません。
娯楽ならばもっと簡単で分かりやすいものを選びます。
実際、今のアニメは原作があって、しかも萌えという分かりやすい要素が多分にあります。


こうした問題から、描写で語る手法は使いづらいものになっている気がします。
しかし、逆に言えば、こういった手法やエヴァ的な難解な作品は今だからこそできるのではないでしょうか。
その理由は電子化にあります。
映像がネット配信でき、かつブロードバンドに耐えうる環境がある今だから、そこで展開する手段が使えます。
そのあたりは新海誠を始め、何人かのクリエーターが始めていることです。
ネットであれば、いつでも見ることができますし、何話もつなげてみることも可能です。
そうすることで、複雑な構造のストーリーでも視聴者がついていけます。


もちろん、そこには利権の問題が絡むので、個人制作でもない限り、すぐに無理でしょう。
ただ、嗜好が多様化する現代で、今までのようにマス的な人気を獲得するのは難しいといえます。
上記のような展開の仕方が、小さな市場を生み出せる方法だと考えるですが。


そうすれば、映像を映像の表現として使った作品が多く生み出されると思うのですが、これいかに。