活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

共感〜、共感〜、共感してください

ロジックだけでは思いは伝わらない! 「共感」で人を動かす話し方

ロジックだけでは思いは伝わらない! 「共感」で人を動かす話し方

ロゴスからパトスへ。
今までは論理的思考に基づいたものこそ善、感情は悪、とされてきました。
しかし、ここにきて、それは必ずしも正しいとは言えなくなっています。


たとえば、経済において人間は「合理的判断」をする、とされてきました。
だから、合意的判断に基づけば間違わないとされてきました。
にもかかわらず、経済が読めない現状を誰も説明することができませんでした。
そして、ここにきて人は感情によって動く、必ずしも合理的判断に基づかない、という論旨が出されました。


当たり前の話ですよね。
どんなに利益を生もうが、感じの悪い人からは買わないし、気分が良ければ買ってしまうこともあります。
感情が人間を左右している以上、経済もまた感情と無関係ではいられません。


もちろん、ビジネスシーンも同様です。
だからこそ、「共感」を得る話し方が必要だというわけです。
ロジックで語るのではなくストーリーで語ることの重要性を筆者は説いています。
合理的判断で説明されるのではなく、情景を思い浮かべられるほうが人はより共感を得やすい、というわけです。


当たり前の話ですよね。
その当たり前が考えられてこなかったのが経済学・経営学です。
はっきり言えば、それが20世紀末の不況を生み出した原因だし、リーマンショックの原因です。
合理的に判断して無制限の拡大再生産こそがもっとも効率的だから、金を稼ぐこと自体が目的化していることです。
それを私は「20世紀型経済」と呼んでおり、そういう企業が今の現状を生み出している、と考えています。
とくにロスジェネ世代なので、その被害をもっとも受けているため、余計に「20世紀型企業」に対する不信感が強いですね。


セカイ系とは何か (ソフトバンク新書)

セカイ系とは何か (ソフトバンク新書)

結局、オタクがどう自己肯定していったか、という一段階が「セカイ系」ではないでしょうか。
どうにも社会学的見地からみた論旨はオタクの自己肯定でしかない、と思いますね。
オタクが「僕はここにいてもいいんだ」と納得するための判断材料です。


筆者の言うとおり、『エヴァンゲリオン』は監督の内省的側面があり、庵野=シンジという公式が成り立つでしょう。
そこで、彼は「オタクよ、外へ出ろ!」というテーゼを発したといえます。
事実、監督はその後、『彼氏彼女の事情』を制作するものの、実写へと傾倒していきます。現実への回帰です。
ただ、それはさほど成功したといえず、「安野の旦那」の地位に納まってしまったのも、また事実です。


正直、『新劇場版』はそういった庵野監督のアニメへの回帰ともとれます。
オタクからの脱却を描きながら、本人はオタクという重力から脱出する速度を得られなかったわけです。
もっとも、私は『新劇場版』を見ていないので、それが真であるか判断できません。あくまで「仮説」にとどめておきます。


話を戻し、「セカイ系」は定義が変遷しながらも「社会を介さない君と僕の物語」となったのは、オタクの自己肯定の表れです。
多かれ少なかれオタクは社会とうまくコミュニケーションをとれていません。もちろん程度の差があるので、完全にコミュ不全のひきこもりもいれば、社会に表面上適応している隠れオタもいます。
しかし、平均的なオタク像をみると、やはり他人からは「変わった人」とみられ、ある枠組みの中に押しやられています。
彼らが自己肯定する手段は「社会」を取り除いてしまうことです。
社会を描かずに、「キミ」と「ボク」しかいない世界であれば、彼らのコミュニケーションは完成します。


社会から追いやられるなら、社会を拒絶して二人の世界にいればよい。


これが「セカイ系」ではないでしょうか。
しかし、筆者の言うように「セカイ系」は商業ベースになじみません。
いくらヴァリアントを作り上げても、閉じた世界である以上、それ以上に広がりは存在しません。
その試行錯誤が「データベース消費」ではないでしょうか。
「物語消費」はどうやっても、社会とのかかわりなしには生み出されません。
それに対し、「データベース消費」は組合せの論理です。要素が多ければ数学的なコンビネーションの数だけ作品を生み出すことができます。
そうすることで、さまざまな「セカイ系」を生み出すことができます。


しかし、やはり広がりがない世界観では、メディアミックスや版権商品が作られにくい。あるいは成功しづらい。
だから、ジャンルとしては衰退していったと考えるべきでしょう。


その代わり出現した「オタク」を主題にした「日常生活」作品が隆盛したと考えられます。
つまり、何かに仮託してオタクが自己肯定することができないのなら、いっそあっけらかんとオタクであること自体を作品にすることで自己肯定を図ろうというわけです。
ただ、この流れはある意味「自虐」にもとれ、このままブームになるかは不明です。


私自身、論壇がいうところの「第三世代オタク」ですが、思春期にはそれなりの自己肯定の模索がありました。
結局は「社会に適応できればオタクでも大丈夫じゃん」という結論に達しましたが。
世の中にはコミュ不全のオタクよりひどい大人がいるので、あっけらかんとしていればいいんではないでしょうか。
あえて、自己肯定を模索する必要はないんです。


思春期的な自己肯定の模索が「セカイ系」であり、だからこそエンターテインメントとしては失敗だったのではないでしょうか。
だって、そんなのは「純文学」の領域です。
実際、「セカイ系」がはやっていた頃は純文学は面白くなかったように感じます。
純文学の十八番(というか存在意義?)がマンガ・アニメ的なものにとられていたのですから。


と、無責任に言ってみたり。