活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

基礎基本を考えることが基礎基本

何事も基礎基本が大事です。


予備校職員という職業柄、生徒には基礎基本の徹底を指導しています。
英語なら単語・熟語、数学なら解法どおりに解けること、日本史・世界史なら古代から現代までの流れを抑えることです。
成績が上がらない生徒というのは、まず第一に基礎基本をおろそかにする生徒です。もしくは、その重要性を理解していない生徒です。だから、何度言っても、単語を覚えないし、難しい問題ばかりやっています。だから、できたりできなかったりすることが多い。


第二に、自分が基礎基本ができていないと認識できていない生徒です。
これが一番問題です。自分ができていると考えているので、人の注目も聞かない、でも成績も上がりません。しかも、その原因を授業や参考書、勉強方法に求めます。本当は自分が基礎基本を不徹底していないのにすぎないのに。


同じように、演劇もまた基礎基本が重要です。
では、演劇における基礎基本とは何でしょうか。
私は、その定義が一番の問題だと感じています。この、基礎基本が誰もよく分かっていないから、独自理論が横行し、役者のポテンシャルに頼った演劇しかないのではないでしょうか。


そもそも、演劇とは何か。
ここから考えていく必要があります。もちろん、単一の要素ではありませんが、少なくとも「ライブ」、その場で起きること、ではないでしょうか。
同じ演技であるTVも映画も、このライブ感は存在しません。音楽のライブと同じです。つまり、一体感です。
同時性による一体感こそが演劇の主な要素です。これがあるから、演劇人は演劇をやめることができないのではないでしょう。


では、そのライブ感を生みだしているものは何か。
それは空間です。役者と台詞、舞台、照明、音響が生み出す空間です。
私はこれを三つに分類しました。
一つは役者、一つは脚本、一つは演出です。
この三つの要素によってライブ感を生みだす空間が生み出されています。


役者は肉体と言葉の二つに分けることができます。肉体も言葉も、その舞台にいて自然かどうか。ここでいう自然とは日常生活の、ではなく、あくまでフィクションとしての舞台上の、です。どんなにウソっぽい動きや非常識な動きであっても舞台上で違和感がなければ、それは演劇として成立します。一方で、どんなに当たり前の動作であっても観客が「何か違う」と感じれば、それはウソになります。
言葉も同様です。いくら日常的な言語であっても、ウソっぽく感じれば演劇ではありませんし、その人が納得して出していないと感じてしまえば興ざめしてしまいます。


脚本は数様々にありますが、少なくとも時間と場所はできる限り、固定すべきです。
どういうことかといえば、舞台上で起こっている物語の時間を短くすることです。たとえば、『ロミオとジュリエット』はほぼ一晩の物語です。ほかの脚本もたいてい1日から半日の物語です。何日にもわたる物語は時間的に間延びしてしまうからです。また、1シーンの密度も荒くなってしまいます。
同じように場所もできるなら一か所にすべきです。TVや映画のようにあちらこちらにすると、ただでさえ場面転換が分かりづらい演劇では致命傷です。
そうやって場所と時間を固定することで、濃密な空間を作ることができます。


そして、演出です。
演出がどういう空間にしたいか、それで舞台は180度変わります。
すべてを統括する演出が、明確なコンセプトとそのための配置に苦心すべきです。
役者をどう動かし、舞台装置や音響、照明をどう使うか、それらを一つのコンセプトのもとに采配することが演出の仕事です。
完成度、クオリティの如何はすべて演出にかかっているといえるでしょう。


これが演劇の基礎基本ではないでしょうか。
演劇という空間を作り出すこと、そのための役者、脚本、演出。ここを徹底することが演劇の基礎基本と言えるでしょう。
ただ、問題はじゃあ、その役者、脚本、演出を鍛え上げるための方法論とは何か、でしょう。
これが分かれば苦労はないのでしょうね。


この方法論を考えることが、演劇人としての私自身の課題でもあります。