活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

方法論を論じることの必要性

ふと、『BAKUMAN』4巻を読みなおして思ったこと。
最近、ノウハウ本や情報が溢れすぎているな、と思います。
「33ページ ありとなし」でも書かれているとおり、教わらなければパースさえ描けない人も多いのではないでしょうか。


よく「学ぶ」は「まねぶ(真似る)」という語源から来ている、と言われます。
真似ることで多くのことを学べ、ということですが、確かにそういう部分もあります。


ただ、私の言いたいことは他人に教わらずに自分で学べ、ということではありません。
インターネット時代になり、情報があまりにも玉石混交になってしまった、ということです。
特に批評家然とした人の多いこと。
(言ってしまえば私もですが)


問題はそういう人たちが何を基準に物事を語っているか、なんです。
たとえば、拙作「ベストセラーなんてダイッ嫌い!!」は参考資料をすべて挙げています。これはアマチュアである私が何に基づいて文章の書き方について説明しているかを明瞭にするためです。
こういう資料に基づいて書いているから、不審な人はこれを調べてね、という意思表示であります。
しかし、世の中には何を基準に(文章技術について)書いているのか分からない人もいます。
おそらくは何かの文献から引っ張ってきたり、自身の経験から話をしているのでしょうが、どこまでが参考で、どこまでが経験なのか明確にしないと、それが無条件に正しいと思ってしまいます。


また、こうすべき(Must)としたほうがよい(Should)の違いも明瞭ではありません。
段落冒頭一字空けはMustですが、会話文の書き方はShouldです。
分かりやすいものはいいのですが、プロでも間違いそうなものや間違えているものもあります。


その業界(マンガや小説)の裾野を広げるために、情報の公開は欠かせません。
しかし、玉石混交のままではかえって混乱してしまい、やはり一部の天才のものだ、ともなりかねません。
そうならないためにも、もっと方法論の整理というものが必要ではないでしょうか。


これはマンガや小説に限らず、多くの業界で必要なことだと考えています。