活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

激動する時代劇

ストレンヂア 無皇刃譚』を観ました。


感想としては、よくできていました。
ストーリーも起承転結や盛り上げ方などは基本に忠実ですし、映像のクオリティーも高かったです。登場人物の動機や主張も矛盾はありませんし、なかなかうまい言葉遊びもありました。


が、印象に残りません。
なぜ印象に残らないかといえば、二つあります。一つは物語のスケールが小さいこと。明からやってきた皇帝の隠密部隊に狙われる少年、その目的は彼を材料に不老不死の仙薬を作ることだった。これはいいです。それを助ける、武士を止めた青年。彼が少年と出会い、少年を救い出す物語、なのですが、伏線は結構張られているのに、その伏線がまるで絡まない。だから、物語に広がりがありませんでした。


もう一つは少年が仙薬の材料になる理由です。それが道士が占って出た結果だけです。だから、なんで必死になるのかがいまいち分かりません。それなりに理由付けはあるのですが、いまいち説得力にかけます。
もう少し少年に特殊性を持たせて、説得力がもつでしょう。


しかし、なによりいらついたのは後ろにいた腐女子でした。
終わったあと、後ろで「刀って二三人斬ったら、血油とかで斬れなくなるじゃん。あれおかしいよね」と言ったことです。
ビックリです。確かに、歴史的に見れば日本刀は二三人斬れば、その刃は刀としての機能を失います。西洋の剣と異なり、「斬る」ためのものですから。
ですが、そこは時代劇のお約束です。どんな時代劇だって、二三人斬ったら刀が斬れなくなる、なんてことはありません。黒沢映画だってそうです。なぜなら、それはお約束だからです。それは叩かれた芸人が痛がっているのを見て、「あれってホントは痛くないんでしょ」というくらいルール違反です。


お約束とリアリティには明確な線引きがあります。お約束は、その方が観客にとって面白いから存在するのです。リアリティは作品の違和感をなくすためです。
ですから、たとえば『ストレンヂア』で名無しが刀を抜いた瞬間、伝説の刀に変わったら(光ったり、ビームが出たり)、それはリアリティをなくします。しかし、刀で何人斬っても、それはリアリティを失いません。むしろ、二三人斬って、そこら辺にある刀に変えたら、その方がリアリティを失ってしまいます。というか、殺陣の流れが途絶えてしまいます。第一、一人が十人も二十人も斬れません。それを考えて発言しているのでしょうか。


それはさておき。
やはり印象が薄いのは否めません。テーマや新しい取り組みがないためです。『スキヤキウェスタン ジャンゴ』はマカロニウェスタンで時代劇をやったらどうなるか、という試みがありましたし、『SHINIBI』は時代劇にワイヤーアクションを取り入れました。
しかし、『ストレンヂア』にはそれがありません。そのために印象が薄いのです。


新しい試みと言えば、『アフロサムライ』!
もう、楽しみです。
サミュエル・L・ジャクソンがどんなことをしてくれるのか。
というか、アフロですか。監督はナベシンですか!?
週末は『アフロサムライ』へレッツゴー。