活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

恋は下心、愛は真心

やはり、自分が本だけあれば生きていけるのだな、と再認識。
どうしましょう。こうなったら、資金を貯めて本屋でも始めましょうかしら(ちょっと本気)。本と戯れる日々、見渡す限り、本・本・本……誰が売るモノか(売り物ですから)。


そんな妄想はさておき。
有川浩『レインツリーの国』を読みました。結論から言えば、できは悪くなかった。しかし、光るものもなし。恋愛ものを書くのは一向に構わないのですが、橋本紡が陥っているスパイラルに有川浩も落ちるのか?


恋愛小説を否定する気はないことを明示してから。
結局、「消費される恋愛」でしかないですね。よく言えば大衆の感情を満たす、悪く言えばお涙頂戴物でしかない。
昔、どこかで「恋愛小説」の基本は障害にあると言いました。ロミジュリしかり風と共に去りぬしかり。身分、年齢、性別、戦争、国家etcさまざまな本人ではどうすることもできない障害を乗り越えるところに、恋愛小説の面白味があります。
最近の小説はセカチューしかり自分で障害を創り出すことで、恋愛小説の体裁を保っています。
『レインツリーの国』は文字通り障害者(難聴者)との恋模様を描いているわけですが、えてして障害者を主人公にすると、良くも悪くもお涙ものになる可能性が高い。
加えて、ストーリーとして二人が主人公になっていますが(二人の視点でそれぞれ語られている)、せっかくネットで知り合ってネットシーンが多いにもかかわらず、それが生かされていません。作者的には難聴者が文字の世界では対等でいられる、自分自身でいられる、と表現したかったのでしょうが、もう少しネットを介して二人の心情を並列させてもよかったのではないでしょうか。
やってはいますが戦略的ではありません。むしろ『バベル』的?


なにより文圧(作品の密度:勝手に造語)が低い。むしろ薄い? 橋本紡も本を重ねるごとに文圧が低くなっています。曜日シリーズの頃が面白かったのにどこで間違えたのでしょう。
安部公房砂の女』を読んだから余計に思うのか、本当に男女間の心情が薄い。『砂の女』は恋愛ものではありませんが、異常な環境での男女の関係性を描ききっています。なるほど、世界で評価されるのも頷きです。


結局、ライトノベル作家はこの程度か、と思われかねない作品ですね。折角ストーリーの起承転結をこなせるようになったのに、冒険しすぎましたか。
そもそも恋愛小説を書くのはかなり難しいと考えています。SFやミステリ、ファンタジーは知識やトリック、発想で何とかなる部分がありますが、恋愛ものは逃げ場がありません。あるべき障害がないか低いかしかないのですから。


恋愛小説で味王様に「う・ま・い・ぞぉ!」とか言わせられないでしょう(笑)。