活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

みんな他人の首を絞めているのさ

最近、結局大学なんてどこを出ても同じじゃない、なんて言葉を聞きます。
確かに、バブル景気の頃のように東大出身者が別枠であった時代は過ぎ去りました。けれど、けっして学歴社会がなくなったわけでも、大学名が無効になったわけでもありません。


学力低下大学全入時代を迎えて、有名大学(MARCH、早慶上智、東大一橋etc)の差がなくなっただけです(就職活動の上で)。日東駒専大東亜帝国レベルとの格差はいまだあり、というよりむしろ広がっています。
試験のレベルは、早慶上智が受験戦争時代のような難関差はなく、センターのようないかに落とさないかが問題になりました。全体のレベル自体は落ちています。けれど、有名校・難関校とそれ以外の格差はそれ以上です。


じゃあ、何が重要なのか。
つまりは君は何ができるの? ということです。就職試験でも、「東大出身ね。君のレベルは分かった。じゃあ、君はこの会社で何ができるの?」という風に、学歴は前提条件、そのうえで何ができるのかという学力以外の能力も問われるようになったわけです。
かつては嘘のように言われていた「一流大学を出れば、一流企業に就職できる」というバブル期の妄想はなくなりました。
しかし、今は上位校を出たうえで、何ができるのか。二重のハードルが用意されているわけです。


ここ1、2年、就職氷河期を抜け、売り手市場の就職状況ですが、それは単純に人手不足の問題(団塊世代の大量退職)であり、あと3、4年したら買い手市場に逆戻りすると思います。今年来年、大学生になる子達が一番可哀相な世代かも知れません。なにせ「ゆとり教育」で学力はない。就職活動は厳しい。


でも、思うわけです。
じゃあ、企業はそんだけ条件を突きつけて、それだけの価値がある職場なのかと。
結局、就職氷河期を通り抜けた世代が厳しい条件をクリアしたにもかかわらず、職場に愛想を尽かすのは、それだけ魅力がないからではないでしょうか。
他人に求めるなら、自らも改善していく必要があると思うわけです。