活字中毒の溺れる様の記

これは、よくいる活字中毒者が溺れ死ぬまでの記録である……なわけない(笑)

肉体する哲学

今、西洋哲学史を読んでいるのですが、近代の哲学は肉体を置き去りにしている感があります。
カントしかりデカルトしかり、思考こそ至高であるような論調です。
確かに、ルネサンスの「人間主義」以降、観察者を中心にする理論が確立されました。その結果、観測者の存在を疑うことはできない、という一つの結論に達します。


ただ、この時期の科学そのものがそうであったように、哲学もまた神へ挑んでいます。この時期は現代のように神を否定するのではなく、神の論理・存在は実はこうであったという、神学への批判でした。
近代の哲学が神学への批判であったために、むしろ精神に重点が置かれました。形而上学が哲学の主流になりました。実存主義のような形而下学が台頭してくるのは、20世紀まで待たなければなりません。17、18世紀は神の存在の再構築から自然科学からの神の排除へと移っていく時期でした。


ふと思ったのは、東洋哲学はその辺をどう思っていたのかな、ということです。
西洋哲学はわりと勉強しているのですが、東洋哲学は諸子百家くらいしか分かりません。その後の展開をほとんど知りません。まあ、儒教がかなり台頭してしまって、あまり展開していないと言えばそうですが。
しかし、肉体と精神の統合は禅的感覚ですよね。禅宗の方が考えていることの答えを得られるのかな。
今度は東洋哲学を勉強しようかしら。